1988年シーズン途中の9月14日、33歳の若さで現役を引退した、掛布雅之(かけふ まさゆき)さんは、その後は、評論家や解説者として活動していたのですが、2013年、現役引退から実に25年ぶりにゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)として阪神タイガースに復帰すると、2015年には、金本知憲監督の強い希望により、二軍監督に就任しています。
「掛布雅之の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄い!」からの続き
現役引退から25年ぶりに阪神のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーターとして復帰
掛布さんは、1988年9月14日に現役を引退すると、その後は、報知新聞の野球評論家や、テレビやラジオで解説者として活動していたのですが、
2013年10月21日、阪神球団から新設のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任することが発表され、現役引退から実に25年ぶりに阪神へ復帰しています。
中村勝広GMから「第二の掛布雅之」再現を託されていた
実は、掛布さんが25年ぶりに古巣・阪神に復帰できたのは、中村勝広GMの尽力によるものだったそうで、中村GMが、高卒でドラフト6位入団し、猛練習のたたき上げで通算349本塁打を放った「掛布雅之」の再現を望み、
カケ、お前みたいな選手を育てたいんだ
と、掛布さんにリクエストしたのだそうです。
(具体的には、掛布さんと同じ左打者で2014年に入団した横田慎太郎選手の将来性に賭け、「横田選手を3、4年で一人前の打者に育てて欲しい」と言われたそうです)
打撃コーディネーター(DC)は非常勤扱いで縦縞のユニフォームを着ることができなかった
ただ、DC(ゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター)は非常勤扱い(背番号およびベンチ登録なし)で、ユニフォームはズボンの着用しか認められず、選手への指導中には球団から支給されるジャンパー、トレーニングウェア、シャツを着用するという、ユニフォームを着ないアドバイザー的な立場でした。
(この年(2013年)11月の秋季キャンプから、主に二軍の若手野手の育成を任され、打撃や内野守備の指導を始めていたのですが、掛布さんと阪神球団の橋渡しをした中村GMが2015年9月23日に脳出血で他界した後は、「球団本部付育成&打撃コーディネーター」という名称になっています)
2015年には金本知憲新監督の強い意向で二軍監督に就任
そんな中、金本知憲さんの阪神監督就任が決まると、2015年10月26日には、掛布さんと野球観が合うと感じていたという、金本知憲新監督の強い意向により、掛布さんは二軍監督に就任。
ついに、掛布さんは、正真正銘の指導者として、1988年の現役引退以来の、縦じまのユニホームを着ることになったのでした。
金本知憲監督(左)と掛布さん(右)。
二軍監督として伊藤隼太、中谷将大、原口文仁らを一軍に定着させていた
すると、掛布さんは、現役時代、猛練習を繰り返す中で、自分で何をすべきか考えて練習しないと向上しないと感じていたことから、二軍の選手たちには「1人に強い人間になれ」と語りつつ、卓越した打撃指導を行い、
DC時代から指導してきた、伊藤隼太選手、中谷将大選手、原口文仁選手らを一軍へ定着させたほか、2016年の春季キャンプでは、新人外野手の髙山俊選手にマンツーマン指導を行い、髙山選手は新人王を獲得。
2017年には、二軍スタートだったドラフト1位入団の大山悠輔選手を一軍に昇格させ、4番を務めるまでに成長させたほか、一軍の主力選手やベテラン選手にも的確なアドバイスを送り、チームの底上げに尽力したのでした。
(4代目ミスタータイガースの掛布さんが二軍監督になると、阪神球団主催のウエスタン・リーグ公式戦には、二軍試合にもかかわらず、観客が殺到しました)
「掛布雅之の二軍監督退任は金本知憲監督との指導方法を巡る対立が原因だった!」に続く