巨人入団3年目の1981年、20勝(最多勝)6敗、勝率.769(最高勝率)、防御率2.29(最優秀防御率)、221奪三振(最多奪三振)、20完投(最多完投)、7完封(最多完封)という素晴らしい成績で、巨人を4年ぶりのリーグ優勝と8年ぶりの日本一に導いた、江川卓(えがわ すぐる)さんは、4年目の1982年も、わずかに20勝には届かなかったものの、19勝(リーグ2位)12敗、勝率.613、防御率2.36(リーグ2位)、196奪三振(最多奪三振)、24完投(最多完投)、6完封(最多完封)と、素晴らしい成績を残しています。
「江川卓は巨人3年目の19勝から20勝まで極度の緊張状態に陥っていた!」からの続き
入団3年目の1981年は投手5冠で巨人を4年ぶりのリーグ優勝と8年ぶりの日本一に導いていた
入団3年目の1981年、投手5冠(最多勝利、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振、最多完封)の大活躍で、巨人を4年ぶりのリーグ優勝に導いた江川さんは、
日本ハムファイターズとの日本シリーズでも、第1戦、第4戦、第6戦の3試合に連続中3日で先発すると、10月17日の第1戦は、6回を投げて自責点4も、
(劣勢になったため降板すると、その後、チームが同点に追いついたことから敗戦投手は免れています。ただ、9回裏にリリーフエースの角三男投手が打たれてチームはサヨナラ負け)
10月21日の第4戦は完投勝利(2対8)、10月25日の第6戦も完投勝利し(6対3)、巨人の8年ぶりの日本一に大きく貢献しています。(4勝2敗)
(プロ入り初めての、連続中3日での先発だったそうです)
日本一を決め、歓喜する巨人内野陣(左から、山倉和博選手、原辰徳選手、江川さん、中畑清選手)
1981年の日本一のウィニングボールは自ら捕球するも行方不明
ちなみに、第6戦では、9回裏二死で、江川さんが(最後の打者となった)五十嵐信一選手をマウンドに高々と打ち上げるフライに打ち取っているのですが、
その際、中畑清選手や原辰徳選手が捕球に駆け寄ってくるも、江川さんは「俺が捕る!」と言わんばかりにマウンドで両手を広げたそうで、結果、江川さんが「ウィニングボール」を掴んだそうです。
(通常、マウンドにボールが上がった場合、投手は野手に捕球を任せ、自身はその邪魔にならないようにマウンド後方に退きます)
しかし、しっかりグラブの中に収めたはずのウィニングボールは、胴上げの後、ふと気がついた時にはなくなっていたそうで、いまだにどこへ行ったか分からないそうです。
4年目の1982年も19勝ほか最多奪三振や最多完封など大活躍だった
さておき、江川さんは、4年目の1982年も、前半戦だけで13勝(全て完投勝利)と素晴らしい投球をすると、後半戦も9月初旬まで4連勝して18勝とし、前年に続く20勝達成かと思われたのですが、
その後、9月14日(中日戦)、21日(大洋戦)、28日(中日戦)と3連敗を喫してしまい、
(8月6日から9月4日まで、3つの完封を含む5勝1敗と順調だったのですが、9月14日には、得意としていた2位の中日戦で大島康徳選手に逆転タイムリーを浴びて負け投手、28日の中日との直接対決でも、9回、6対2から同点に追いつかれて逆転負けし、マジック点灯も消してしまっています)
10月3日の大洋戦では完封勝利するも(リーグ優勝に王手)、チーム最終試合の10月9日の大洋戦では、3本のソロ本塁打を浴びて負けてしまい、20勝を逃すとともに、チームも2連覇とはならなかったのでした。
それでも、江川さんは、この年(1982年)、19勝(リーグ2位)6敗、勝率.613、防御率2.36(リーグ2位)、196奪三振(最多奪三振)、24完投(最多完投)、6完封(最多完封)と、素晴らしい成績を残しています。
「江川卓は8者連続奪三振(オールスター)を記録していた!」に続く