1978年、読売ジャイアンツに入団すると、2年目の1980年には、最多勝、最多奪三振、最多完封の投手3冠、3年目の1981年には、最多勝、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振、最多完封の投手5冠、その後も、引退する1987年まで2桁勝利を続けるなど、輝かしい成績を残した、江川卓(えがわ すぐる)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。今回は、そんな江川さんの奥さんとの馴れ初めなどをご紹介します。
江川卓の妻・正子との馴れ初めは?
江川さんは、プロ入り1年目の1979年12月23日、日本航空(JAL)国際線の客室乗務員だった菊地正子さんと結婚しているのですが、1975年(大学2年生)の春のシーズンが終わった後、日米大学野球選手権の全日本メンバーに選ばれ、試合が行われるアメリカへと向かう日航機の中で、国際線の客室乗務員を務めていた正子さんと初めて出会ったといいます。
(正子さんは、名門都立青山高校から実践女子短期大学の英文科に進み、短大を卒業後、日本航空の国際線の客室乗務員になったそうです)
実は、江川さんは、高所恐怖症で、飛行機が大の苦手だったそうで、(みんながワイワイとはしゃいでいる中)一人だけ目を閉じてじっとしていたそうですが、そんな江川さんに「気分でも悪いんですか?」と声をかけてくれたのが正子さんだったそうで、その瞬間、正子さんに一目惚れしたのだそうです。
(目を閉じても眠れず、不安でいっぱいだったそうですが、そんな中、正子さんとの会話にとても救われたのだそうです)
江川卓は正子が忘れられず、先輩の田尾安志と二宮至についてきてもらい宿泊先のホテルを訪ねていた
そんな江川さんは、その後、無事、ロサンゼルスに到着し、空の旅の恐怖から解放されると、今度は、正子さんの顔が目の前にチラついて離れなくなり、「もう一度逢いたい」と正子さんへの思いを募らせたそうで、
思い切って、同じく全日本のメンバーで先輩の田尾安志さん(同志社大)と二宮至さん(駒沢大)に相談すると、「それじゃあ、会いに行こうじゃないか」ということになったそうで、日航機の客室乗務員が宿泊しているホテルを調べ、ロスに到着したその日の夕方、田尾さんと二宮さんについてきてもらい、正子さんの宿泊先のホテルを訪ねて行ったのだそうです。
江川卓はエアメールのアドレスの書き方を口実に正子にアプローチしていた
とはいえ、江川さんは、これまで野球一筋で、会ったその日に「忘れられないから来ました」と言えるほど女性に慣れていなかったため、
「手紙をエアメールで出すときの、アドレスの書き方がわからないんですけど・・・」と、アドレスの書き方を口実に(ドキドキする胸を抑えながら)アプローチすると、正子さんは快く教えてくれたそうで、
その後、(この時の詳しい経緯は不明ですが)正子さんは同僚の客室乗務員を1人連れてきて、近所のコーヒーショップでみんなでお茶をすることになり、和気あいあいとした雰囲気になったのだそうです。
(ただ、田尾さんと二宮さんが正子さんたちと仲良く話し込み、「年下はあっちに行ってなさい」と言わんばかりに、江川さんは4人がけのテーブルから1人追い出されたそうで、一人、ブスッとしていたそうです)
江川卓は別れ際に正子とアドレスを交換していた
また、正子さんと別れた後も、江川さんたち5人は時差ボケで寝付けなかったことから、コーヒーショップで夜を明かしたそうですが、
翌日も、練習が終わった夕方、同じメンバーで正子さんの宿泊先のホテルに押しかけたそうで、別れ際にはアドレスを交換したのだそうです。
(このアドレスは江川さんの宝物になったそうです)
ちなみに、正子さんは世界に羽ばたく日航機の客室乗務員で、大学生といっても野球しかやっていないイガグリ頭の無骨者だった江川さんに対し、「何か困ったことでもあったら相談にいらっしゃい」と言ってくれたそうで、まるで先輩と後輩のような雰囲気だったそうです。
(江川さんは、正子さんのことを3つくらいは年上かなと思っていたそうですが、アドレス交換の際に、6歳年上だと聞いて、さすがに驚いたそうで、その紙の余白に「26。僕は20」とあわてて書いたそうですが(この紙は今でも取ってあるそうです)、すぐに年齢は問題ではないと思ったそうです)
「江川卓は妻の母親が大の野球通で家に招かれるようになっていた!」に続く
結婚披露宴での江川さんと妻の正子さん。