広島監督在任中の1991年秋のドラフトで4位指名した金本知憲選手を、重点強化選手に指定してファームでじっくり育てると決めると、金本選手が育つ前に、1993年に監督を辞任するも、その後、金本選手が素晴らしい選手に育ち、広島監督に復帰した2001年からは、金本選手を全試合4番に固定した、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、2002年のオフには、そんな金本選手を親友の阪神・星野仙一監督に奪われてしまいます。

監督時代の山本浩二と星野仙一

「山本浩二は金本知憲と新井貴浩を我慢して育てていた!」からの続き

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山本浩二は東京六大学時代からの親友・星野仙一にチームの主軸・金本知憲を奪われていた

山本さんと星野仙一さんは同級生で、山本さんは法政大学のスラッガー、星野さんは明治大学のエースとして、東京六大学時代でしのぎを削っていたのですが、また、大の親友でもあったそうです。

そんな星野さんにチームの主軸である金本知憲選手を奪われたことについて、

後に、山本さんは、

(金本選手が)出ていくとは思わなかった。仙ちゃんに強引にやられた

と、悔しがっているのですが、

実は、金本選手がFAするかどうかで迷っている時、星野さんが広島まで会いに来て、

(金本が)FAしたらウチにくれ。オレは獲るぞ

と、言われ、

山本さんは

獲れるものなら獲ってみろ

という態度だったといいます。

現役時代の星野仙一と山本浩二
現役時代の星野仙一さん(左)と山本浩二さん(右)。

金本知憲は阪神・星野仙一監督の熱心な誘いに押され、半ば脅される形で阪神に移籍していた

そして、FA交渉が解禁となると、星野さんは、すぐ、金本選手に、

(金本選手は当初、レフト方向に浜風が吹く甲子園ではプルヒッターの自分には不利だと、移籍に難色を示していました)

来年からは異常気象で風向きが逆になるから

球界全体を考えろ

一緒にプロ野球を盛り上げよう

お前が必要だ

おまえは俺と一緒に歩むことなっている

などと、阪神の変革にいかに金本選手が必要かを訴え続けたほか、

広島愛の強い金本選手に考える隙を与えないために、

とにかく早く(判子を)押せ!今すぐ決めろ!

と、即決を迫ったそうで、

金本選手は、何度か断ったそうですが、星野さんの迫力に押され、阪神に移籍することになったのでした。

ちなみに、星野さんは、親友である山本さんからチームの主軸を奪うことについて、心苦しくないかと記者に質問されると、

カネがFAになったとき、浩二に“獲りにいってええか”と聞いたんや。そしたら“出ていくならええよ”と。浩二の了解を得たんやから、遠慮はいらんわな(笑)

と、筋を通したことを明かしているのですが、

(しかも、星野さんは、山本さんに何度か探りを入れながら、資金難にあえぐ広島の情勢もキャッチしていたのでした)

一方、山本さんは、スポニチの連載「我が道」で、

金本も2002年オフ、FAで阪神に移籍。財政状況が厳しい地方球団に高額年俸のFA選手を引き止める余裕はなかった。

1993年にドラフト逆指名と同時に導入されたFA制度。カープは出ていくだけの一方通行だ。1999年の江藤に続いて金本・・・。やっと育った4番が次々と出て行ってしまう。つらかった。

と、綴っています。

山本浩二は北京五輪野球日本代表チームで星野仙一監督のもと守備・走塁コーチを務めていた

そんな山本さんと星野さんですが、2007年1月、星野さんが翌年にひかえた「2008年北京オリンピック」野球日本代表の監督に就任すると、山本さんは、星野さんのもと、代表チームの守備・走塁コーチを務めています。

(結果は4位で、上位3チームには5戦全敗でした)

そして、星野さんが、2018年1月4日に亡くなると、

山本さんは目を真っ赤にして必死に涙をこらえ、

バカヤローだよ。早すぎる…

つらい。本当につらい。ショックが大きい

と、語っています。

北京五輪時の星野仙一と山本浩二
2008年北京五輪時の星野仙一さん(左)と山本浩二さん(右)

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山本浩二の星野仙一への弔事

それでは、最後に、山本さんが、2018年1月19日に都内で行われた星野仙一さんのお別れ会で述べた弔事をご紹介します。

仙、まだ信じられないよ。去年のパーティーで疲れているんじゃないかなという思いがありました。1月に訃報を聞いたときに、まさか…。

さみしくて、悔しくて、今でも信じられません。50年の付き合いになるんだよな。よきライバル、そしてよき友として、張り合って来ました。現役時代は、移動日になると、お互いの家に食事に行き、何の変哲もない話ばかりして、子供たちも大変世話になりました。

監督時代、チームを率いるんだから、付き合いはやめようと約束をして戦いました。考えてみればいつも、負けたくない気持ちをお互いをもっていたんじゃない。

ただひとつ、若い頃、田淵と3人で食事をしているとき、『いつか一緒のユニホームで戦いたいな』と。その戦いたいユニホームが北京オリンピックでした。

監督の要請があったときにすぐに電話をくれて、『一緒にやるぞ』と。残念ながら、メダルは獲れませんでした。しかし、あの間の、1年半、非常に充実した、そして、周りからの批判もあるかも分からないけど、がむしゃらにやろうじゃないかという話をしました。

相手の国の視察、予選の前の合宿、それから本戦まで気の抜けない毎日でした。普通の監督だったら、3人ではできなかったかもしれない。星野仙一の心の広さ、懐の深さをしみじみ感じました。

改めて、星野仙一はすごいやつだったんだなと。そのすごい奴を50年間、友として、付き合ってくれて、本当に、ありがとう。今日もたくさんの人がお別れに来ている。全国の人が、別れを惜しんでいる。すごい人間だった。

この笑顔は、忘れられないよ。ケンカ早い仙が、本当は心の優しい奴なんだというのは、皆さんがもう知っている。今頃、亡くなった扶沙子さんと楽しくやっているんだろうな。

家族を愛し、チームを愛し、ファンを愛し、野球に恋をした星野仙一。友でよかった。ありがとう。安らかに

ちなみに、山本さんは、台本などは用意せず、ゆっくり言葉を選びながら、星野さんに語りかけるように、弔事を述べたといいます。

「山本浩二は侍ジャパン監督(2012)の親善試合では2戦2勝していた!」に続く

星野仙一のお別れ会で弔事を読む山本浩二
星野仙一さんのお別れ会で弔事を読む山本浩二さん。

お読みいただきありがとうございました

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