1976年、ドラフト一位指名で中日ドラゴンズに入団すると、この年には新人王を獲得し、1982年には、打率3割5分をマークする活躍で優勝に貢献するほか、この年から3年連続セ・リーグ最多安打を記録した、田尾安志(たお やすし)さんは、
小学3、4年生の時にソフトボールをしたことがきっかけで、小学5年生で野球を始めたそうで、小学6年生の時には、関西地区で優勝、中学進学後も野球部で中心選手として活躍し、高校時代も、大黒柱として、弱小野球部を準決勝まで導いたといいます。また、大学時代も、関西六大学野球リーグで3度優勝するほか、大学3年生の春と秋には首位打者に輝くなど素晴らしい成績を残しています。
今回は、そんな田尾安志さんの、生い立ち(幼少期から同志社大学時代まで)をご紹介します。
田尾安志のプロフィール
田尾安志さんは、1954年1月8日生まれ、
大阪府大阪市西区の出身、
身長173センチ、
体重75キロ、
血液型はA型、
学歴は、
大阪市西区立西中学校
⇒大阪府立泉尾高校
⇒同志社大学社会学部社会学科産業関係学専攻卒業
趣味は、音楽観賞、釣り、スキューバダイビング、
特技は、指圧、
ちなみに、「田尾安志」は本名です。
田尾安志の幼少期は裕福ではないものの精神的に安定した家庭で育っていた
田尾安志さんは、香川県出身で、自動車関係の町工場を営んでいたお父さんの義留さんとお母さんの八千代さんのもと、2人兄弟の長男として大阪市港区で誕生すると、小学2年生まで長屋のような家に住んでいたそうですが、台風で床上浸水したことから、大阪市西区に引っ越したそうです。
ちなみに、田尾安志さんの育った家庭は、決して裕福ではなかったそうですが、隣の鉄工所で働く若い人たちにご飯を食べさせてあげるような面倒見の良いお父さんと、いつも田尾さんら子供たちの面倒をみてくれた「肝っ玉かあちゃん」と言った感じのお母さんのもと、精神的に安定した家庭で育ったそうです。
ただ、お父さんからは、
けんかには負けて帰ってくるな
と、言われていたそうで、
田尾安志さんがケンカに負けて泣いて帰ってくると、家に入れてくれず、
もう一回行ってこい
弱いヤツはあかんのや
と、言って水をかけられたのだそうです。
田尾安志は小学3~4年生の時にソフトボールを始めていた
そんな田尾安志さんは、小学3、4年生の頃、学校の授業が終わった後、友達みんなで集まってソフトボールをするのが日課になっていたそうで、
誰かに教わるわけではなく、みんなで遊ぶということが楽しく、ソフトボールにのめり込んだそうです。
田尾安志は小学5年生で野球を始めると小学6年生の時には関西地区で優勝していた
そして、小学5年生の秋には、友達の何人かが、上投げの野球をしていたことから、田尾安志さんも町の野球チームに入ったそうですが、
この時、初めて野球を始めると、小学6年生の時には、大阪市西区でリトルリーグのチーム「大阪西ボーイズ」を作ることになり、ソフトボールの上手かった子どもたちが選ばれたそうで、田尾安志さんもその中の一人に選ばれたのだそうです。
すると、そのチームはあれよあれよと勝ち進み、関西地区で優勝。
東京で全国大会を戦い、決勝まで勝ち進んだそうですが、残念ながら決勝戦では負けてしまったのだそうです。
リトルリーグ時代の田尾安志さん。
田尾安志は小学5、6生の頃に水泳で大阪市3位になるほか、学級委員を務める優等生だった
また、田尾安志さんは、小学5、6生の頃には水泳部にも入っており、大阪市で3位に入る成績を収めるなど、運動神経抜群だったそうですが、
それだけでなく、小学1年生から6年生まで学級委員を務める優等生でもあったそうです。
田尾安志は中学時代は野球部に入部し中心選手として活躍していた
田尾安志さんは、水泳部でも3位と好成績を残したことから、野球と水泳、どちらにしようか迷ったそうですが、単調な練習ばかりでおもしろくない水泳よりも、リトルリーグで勝ち上がると、新幹線に乗れたり、おいしいものを食べることができる野球を選んだそうで、
中学進学後も、野球部に入部すると、中心選手として活躍したそうです。
田尾安志は経済的な事情で公立の泉尾高校に進学していた
田尾安志さんは、中学卒業後の進路を考える時期になると、私立の強豪校から数多くの勧誘があったそうですが、経済的な事情による両親の意向で、公立の泉尾高校に進学したそうです。
実は、田尾安志さんは、高校を受験した日、野球部の見学に行くと、2人だけでキャッチボールをしている先輩がいたそうで、絶対に受かると思っていたため、
今度、野球部に入りますからよろしくお願いします
と言って、キャッチボールに加えてもらったそうですが、
田尾安志さんのボールが速すぎて先輩はボールを取ることができなかったそうです。
また、部員は5人しかおらず、存続があやぶまれるような野球部だったそうです。
その後、野球部には、1年生が20人ほど来て、夏までには10人に減ってしまったそうですが、残った10人のうち、5人は中学生の時、野球部ではなく、バレーボールやソフトボールをやっていた子、または何もやっていなかった子だったそうです。
(田尾安志さんは、もともと、泉尾高校よりも野球が強い市岡高校に行きたかったところ、担任の先生に、市岡高校では野球と勉強の両立が大変になるからと、泉尾高校を勧められていたそうで、野球部があるならと泉尾高校を選んでいたそうですが、少しだまされた気がしたそうです)
泉尾高校時代の田尾安志さん(左)。
田尾安志は高校3年生の時、エースとして活躍するも、甲子園出場は叶わなかった
しかし、そんな弱小野球部だからこそ、田尾安志さんは、反発心がわき、生来の負けん気の強さを発揮してエースで主力打者として活躍したそうで、
1972年、高校3年生の夏の甲子園予選は、2回戦で近畿大学附属高等学校、3回戦で春日丘高等学校、4回戦で北陽高等学校、準々決勝で大阪商業大学高等学校を下し、準決勝まで進出。
ただ、準決勝では、残念ながら、大阪体育大学浪商高等学校に敗退してしまったそうです。
(泉尾高校の弱小野球部では、田尾安志さんが中心となり、自分たちで練習メニューを決め、自分たちで弱点を克服し、徐々に強くなっていったそうで、田尾安志さんは、監督が誰だったかも覚えていないそうです)
田尾安志は高校卒業後は同志社大学に進学していた
田尾安志さんは、高校卒業後の進路を考える時期になると、早稲田大学に進学した先輩から勧誘されたそうですが、関西の大学に行きたいと思っていたため断ったそうで、
(野球部員ではなかったそうですが)泉尾高校の先輩が仲が良かった同志社大学の4年生の投手から誘われ、同志社大学に進学したそうです。
(実は、大学進学時には、広島東洋カープから勧誘があったそうですが、田尾安志さんは知らされておらず、後から聞かされたそうで、なんでも野球部の部長によると、田尾安志さんが大学進学を希望していたため、耳に入れなかったとのことで、田尾安志さんは、もし、知っていたら、家計を助けるために、高卒でプロ入りしていたかもしれないと語っています)
田尾安志は同志社大学時代には関西六大学野球リーグで3度優勝、大学3年生の春と秋には首位打者に輝いていた
こうして、田尾安志さんは、同志社大学に進学し、硬式野球部に入部したそうで、1年生、2年生の時には、投手のみだったそうですが、3年生からは打者も務めるようになると、投手で4番打者として活躍したそうで、
関西六大学野球リーグでは、大学3年生の春と秋に首位打者に輝くなど、打者としても目覚ましい活躍で、同志社大学を3度優勝に導いていたのでした。
ちなみに、田尾安志さんの関西六大学野球リーグでの通算成績は、
- 打者としては、70試合出場、211打数78安打、打率.370、10本塁打、37打点
- 投手としても、35試合登板、14勝3敗、防御率2.12、112奪三振
で、投打で素晴らしい成績を残しています。
また、そんな田尾安志さんは、大学2年の時から3年連続で日米大学野球の日本代表に選出されています。
「【画像】田尾安志の若い頃が凄い!現役時代から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
同志社大学時代の田尾安志さん。
1976年、ドラフト一位指名で中日ドラゴンズに入団すると、新人王に輝き、以降、最多安打3回(1982年~1984年)、最多出塁1回(1982年)、ベストナイン3回(1981年~1983年)、オールスターゲーム出場7回(1 …