国際Aマッチ通算77試合出場し、11得点を挙げる活躍で、アジア史上最高のサッカー選手の1人と称され、1990年代後半から2000年代前半にかけて世界を代表するサッカー選手の1人とも称された、中田英寿(なかた ひでとし)さん。
今回は、そんな中田英寿さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
「中田英寿の生い立ちは?中学高校時代からコーチに意見し受け入れられていた!」からの続き
中田英寿は19歳の時に最年少でアトランタ五輪に出場し「マイアミの奇跡」に貢献していた
中田英寿さんは、1996年、19歳の時、最年少でアトランタ五輪に出場すると、キャプテンを務めた前園真聖さんと共に攻撃陣の柱として活躍し、グループリーグ第1戦のブラジル戦での勝利に大きく貢献しています。
(「マイアミの奇跡」と呼ばれました)
アトランタ五輪出場時の中田英寿さん。
中田英寿は21歳の時にフランスW杯予選で日本代表のメンバーに選出されていた
そんな中田英寿さんは、アトランタ五輪とJリーグでの活躍を足がかりに、1997年5月、20歳の時には、ワールドカップ(フランス大会)日本代表にも選ばれ、韓国との親善試合でワールドカップ日本代表デビューを果たしています。
(ちなみに、オリンピック代表とワールドカップ代表は異なるチームで、オリンピックはU代表(23歳以下の年齢制限あり+オーバーエイジ枠)、ワールドカップはA代表(年齢制限なしのチーム)が参加します)
1998年フランスW杯出場時の中田英寿さん。
中田英寿は21歳の時にイタリアのセリエA「ACペルージャ」に移籍
ただ、W杯フランス大会では、日本代表はわずか1得点で全敗。それでも、中田英寿さんの能力の高さは、世界的に注目を集め、様々なクラブからオファーがあったそうで、
中田英寿さんは、1998年7月、21歳の時には、イタリアのセリエAに昇格したばかりの「ACペルージャ」に移籍します。
(日本人では、三浦知良さんに続く2人目のセリエA選手となったそうです)
中田英寿は21~22歳の時「ACペルージャ」で強豪「ユヴェントスFC」戦2ゴールを決め衝撃的なデビューを飾っていた
そんな中田英寿さんは、「ACペルージャ」では、1998~1999年シーズン開幕戦、前年度のリーグ王者「ユヴェントスFC」戦で、2ゴールを決める衝撃的なデビューを飾ると(21~22歳)、
その後も、セリエA1年目には、32試合に出場して10得点を挙げるなど、「ACペルージャ」のセリアA残留に大きく貢献します。
「ペルージャ」時代の中田英寿さん。
中田英寿は22歳で「ローマ」に移籍すると18年ぶりのリーグ優勝に貢献していた
そして、中田英寿さんは、1999~2000年シーズンの途中から強豪「ローマ」に移籍すると、2001年まで在籍しているのですが、2000~2001年シーズンには、18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献しています。
ちなみに、2001年5月6日、「ローマ」は2位の「ユヴェントス」と勝ち点6差で第29節を迎え、「ローマ」は0対2と「ユヴェントス」にリードを許した状態で前半を終えていたのですが、
(「ローマ」が負ければ残り5試合で順位を逆転される可能性のある落とすことのできない試合だったそうです)
スタジアムが「ユヴェントス」勝利という空気で埋め尽くされる中、後半の途中、中田英寿さんが、トッティさんに代わって登場すると、センターライン付近からの豪快なスーパーミドルシュートを決めて1対2と追い上げ、
さらに、中田英寿さんが、再び鋭いミドルシュートを放つと、このこぼれ球をモンテッラさんが決めて2対2に追いついて引き分けに持ち込んだそうで、その後、「ローマ」は最終節の「パルマ」戦で勝利し、「ユヴェントス」と2ポイント差で優勝を果たしたのでした。
ちなみに、トッティさんは、この時のことを振り返り、
試合開始10分で2点を取られた。たしかゴールはデルピエロとジダン。我々はまったく歯が立たなかったよ
中田の前だから言うんじゃなくて、中田が入って15分で試合の流れが変わったんだ
1点目を決め、2点目も彼が決めたみたいなものだよ
あの日は中田がサッカー史にその名を刻んだ。中田のための夜だったね
と、語っています。
2001年5月6日のユヴェントス戦より。
中田英寿は23歳の時にシドニー五輪に出場するもアメリカとの準々決勝でのPK戦で失敗していた
そんな中田英寿さんは、2000年、23歳の時には、シドニーオリンピックの日本代表メンバーに選出されているのですが、アメリカとの準々決勝で延長戦となり、2対2のままどちらも譲らなかったため、PK戦に突入すると、
中田英寿さんは、4人目のキッカーを務めるも、左ポストに直撃し失敗しています。
(日本の準決勝進出はなりませんでした)
シドニー五輪でPKを外し頭を抱える中田英寿さん。
中田英寿は24歳の時には「パルマAC」に移籍しトップ下でプレーするも活躍することができなかった
また、中田英寿さんは、2001年、24歳の時には、大きな期待を集めて「パルマAC」に移籍すると、最初のシーズン(2001年~2002年)では、レンツォ・ウリヴィエリ監督の下、トップ下でプレーするも、活躍することができずに終わっているのですが、
ウリヴィエリ監督には、
中田は、トップ下も十分こなせる高い技術を持っている。しかしフィジカル的な資質はMFにより近い。つまり、非常に高い持久力を持ち、90分間休まず走り続けることができるが、爆発的な瞬発力には欠けている。
トップ下は、試合の中でどんな動きをするだろうか。ずーっと動かずにいて、突然ダッシュをする。またずーっと止まっていて突然スタート。この繰り返しだ。
しかし中田は常に走り続け、動き回っている。これはMFのプレースタイルだ。中田は、たくさんのボールに触る中で、質の高いプレーを繰り出す。我々がよく使う表現で言うと“量の中に質を見出す選手”だ。
こういうタイプはトップ下にはあまり向かない。相手DFとの距離が近すぎて、動き回るスペースがないからだ。彼が生きるのは、もっと自由に動ける中盤だ
と、中田英寿さんがトップ下でプレーすることに向かない選手であり、もっと早くそれに気がつくべきだったと言われています。
「パルマ」時代の中田英寿さん。
中田英寿は25歳の時には日韓W杯に出場し、チュニジア戦でゴールを決め決勝トーナメント進出に大きく貢献していた
中田英寿さんは、2002年、25歳の時には、日韓W杯に日本代表メンバーの中心選手として、グループリーグ3試合に出場すると、グループリーグのチュニジア戦では、ヘディングで自身のW杯初ゴールを決め、決勝トーナメント進出に大きく貢献しています。
日韓W杯出場時の中田英寿さん。
中田英寿は27歳~28歳の時には「ボローニャ」⇒「フィオレンティーナ」⇒英「ボルトン」に移籍
そんな中田英寿さんは、その後、「ボローニャ」へのレンタル(期間限定)移籍を経て、2004~2005年シーズン、27歳~28歳の時、「フィオレンティーナ」に移籍するのですが、
ケガや監督との確執などから、2005年、28歳の時には、イングランド・プレミアリーグの「ボルトン・ワンダラーズ」にレンタル移籍しています。
「ボローニャ」時代の中田英寿さん。
中田英寿は28歳の時「ボルトン」では日本代表戦の都度チームを離れたことが影響し、チーム内の序列を下げていた
中田英寿さんは、新天地「ボルトン」では、シーズン序盤はサム・アライダス監督からの信頼も厚く、スタメンに名を連ねると、その期待に応えるように、第10節のWBA戦ではプレミア初ゴールを挙げています。
しかし、その後、中田英寿さんが日本代表戦のたびにチームを離れると、チーム内での序列が下がり、リーグ戦38試合のうち、スタメン14試合、途中出場7試合と、主にリーグ戦の途中出場とカップ戦の出場になってしまいます。
「ボルトン」時代の中田英寿さん。
中田英寿は29歳の時に突如現役引退を表明していた
そんな中、「ボルトン」2年目の2006年は、本領発揮を期待されていた中田英寿さんですが・・・
この年、ドイツW杯でブラジル戦に惨敗すると、この大会から11日後の2006年7月3日、自身の公式サイトで、突如、引退を表明したのでした(29歳)。
2006年、ドイツW杯でブラジル戦に敗れた中田英寿さん。
実は、中田英寿さんは、2005年11月には、日本代表引退と同時に現役も引退することを決意していたそうで、
その理由について、2017年、テレビ番組「人生が二度あれば 運命の選択」に出演した際、
自分がサッカーをやってて、好きでやってるわけで、その“好き”の部分が楽しめなくて、その時期も長く続いてて。だったらここは一旦休んだほうがいいな(と思った)
と、明かしています。
(ちなみに、中田英寿さんは、2003~2004年頃、グロインペイン症候群(鼠径部痛症候群)を発症し、その後も、このケガに悩まされていたのですが、すでに完治しており、引退の理由ではないとも語っています)
中田英寿の現在
そんな中田英寿さんは、サッカー引退後は、世界を旅していたそうですが、行く先々で日本の魅力に気付かされ、やがては、日本国内に関心が向かったそうで、6年半の歳月をかけて沖縄から北海道までの47都道府県、日本各地をくまなく旅して回ったといいます。
ちなみに、この旅のテーマは、伝統工芸、農業、お酒、お寺や神社を巡ること、良い宿、良いレストランを知ることだったそうですが、その地域に住む人たちの生活を見ることが日本を勉強することになるのでは、と思ったそうで、
中田英寿さんは、
最初は「好きでも嫌いでもないけど、とりあえずやってみよう」という状態だったものが、知れば知るほど好きになって、のめり込むようになりました。
それはサッカーでも同じで。小学3年生の8歳のときに好きで始めて、それ以来ただ好きでやっていたものが、あるとき「プロになれます」と。ここから仕事になるというその日が来たのが18歳のときだったから、10年をかけて趣味(遊び)が職業になりました。
僕がサッカーをやめたのが29歳。今38歳(2016年)だから、ほぼ10年が経ちました。これまでの日本の旅は僕個人の趣味としてやってきたけど、10年経った今、今度はこれを本気で職業にしてやっていきたいというところまで徐々に変化してきましたね。
と、語っています。
また、中田英寿さんは、W杯開催期間中にはnakata.net cafeを開設するほか、東ハトの執行役員も務めるなど、ビジネスにも積極的に携わっています。
「中田英寿の妻は?結婚している?元カノには宮沢りえや柴咲コウも!」に続く
1996年アトランタオリンピックでは、最年少で日本代表に選出され、ブラジル戦での勝利に貢献すると、その後も、セリエAの「ペルージャ」「ローマ」など、イタリアのトップチームに所属して活躍した、中田英寿(なかた ひでとし)さ …