1971年にアニメ「原始少年リュウ」の主題歌を歌唱したことを皮切りに、アニメソング歌手に転向すると、アニメの主題歌や挿入歌を歌唱するようになり、「マジンガーZ」「宇宙海賊キャプテンハーロック」が大ヒットを記録して、「アニソンの帝王」と称されるようになった、水木一郎(みずき いちろう)さん。
そんな水木一郎さんは、音楽に恵まれた環境で生まれ育ち、5歳の時に歌手になることを志すと、中学時代には毎日欠かさず、発声練習をしていたといいます。
今回は、そんな水木一郎さんの、生い立ち(幼少期)から歌謡歌手時代までをご紹介します。
水木一郎のプロフィール
水木一郎さんは、1948年1月7日生まれ、
東京世田谷区の出身、
身長170センチ、
血液型はO型、
学歴は、
世田谷区立梅丘中学校
⇒世田谷高等学校卒業
趣味は、ゲーム、
ちなみに、本名は、「早川俊夫」(はやかわ としお)で、
2022年12月6日、74歳で亡くなっています。
水木一郎が誕生する前、両親は実家でレコード店を経営するも、空襲により焼け落ちていた
水木一郎さんが誕生する前、実家はレコード店を経営していたそうですが、東京大空襲によって焼けて落ちてしまったそうで、お父さんは、疎開先の世田谷でクリーニング店を始めたそうです。
(お父さんがクリーニング店を経営することにしたのは、戦争中は、敵国である英米の曲は聴いてはいけないという決まりがあったためだと思われます)
水木一郎が幼い頃は音楽に恵まれた環境で育ち、5歳の時には歌手になろうと決めていた
水木一郎さんは、クリーニング店を営むお父さんのもとに誕生すると、自宅には当時まだ珍しかったステレオセットがあったほか、ジャズが好きだったお母さんの影響もあり、幼い頃から自然と洋楽に親しみ、5歳の時には、歌手に憧れ、歌手になろうと思ったそうです。
(お母さんの聴くジャズが子守唄代わりだったそうです)
ただ、そのことをお父さんに伝えると、バカにされ、笑われたそうで、水木一郎さんは、悔しくて仕方がなく、庭のさるすべりの木に登って泣いたといいます。
そして、庭の銀杏の木に登っては、風に乗ってくるキャラメル工場の匂いをかぎながら、ビング・クロスビーやフランク・シナトラになったつもりで、毎日、でたらめな英語で歌を歌うようになったのだそうです。
水木一郎は中学生時代には歌手を目指し、毎日欠かさす発声練習をしていた
そんな水木一郎さんは、中学時代には、ギターを抱えて近くの公園やお寺に行き、パット・ブーン、エルヴィス・プレスリー、ナット・キング・コールなど、ありとあらゆる歌手の歌唱法をお手本にして発声練習をしたそうです。
(雨の日も風の日も練習は1日も欠かしたことがなかったそうです)
そして、家に帰ると、テープレコーダーに歌を吹き込んで自己採点したり、いろいろな歌手の歌を回転数を変えて聞き、バイブレーション(声を震わせること)やブレス(呼吸)を徹底的に研究したそうで、
水木一郎さんは、この頃から、
いつか、世界に通用する歌手になるぞ!
と、思っていたのだそうです。
12歳の時の水木一郎さん。
水木一郎は16歳の時にジャズ喫茶「ラ・セーヌ」のオーディションでグランプリに輝いていた
また、水木一郎さんは、1964年、16歳の時には、ジャズ喫茶に入り浸るようになり、顔なじみになったザ・ドリフターズの桜井輝夫さんに勧められて、新宿にあったジャズ喫茶「ラ・セーヌ」のオーディションを受けると、ジョニー・シンバルの「僕のマシュマロちゃん」(英語版)を歌って、見事、グランプリに輝いたそうで、
このことがきっかけとなり、水木一郎さんは、いくつものジャズ喫茶のステージで、スタンダードやアメリカンポップスを歌うようになったのだそうです。
(ジャズ喫茶とは、今でいう、ライブハウスのことで、歌手の登竜門的な存在だったそうです)
水木一郎は17歳の時に作曲家・和田香苗に弟子入りしていた
しかし、なかなかレコードデビューのきっかけがつかめず、1年後の1965年、17歳の時には、作曲家・和田香苗さんに弟子入りし、同年、「早川昭」名義で、テレビ西部劇「シェナンドー(英語版)」の日本語版主題歌「シェナンドー」を歌唱しています。
(この「シェナンドー」は、宣伝用フォノシート(半透明の赤い小さなレコードのことで、雑誌の付録などについていました)が製作されたものの、非売品で、一般発売はされておらず、2018年、デビュー50周年記念アルバム「Just My Life」に収録され、初めて一般発売されたそうです)
デビュー前の水木一郎さん。
水木一郎は20歳の時に歌謡曲「君にささげる僕の歌」でレコードデビューするも全く売れなかった
そして、1968年、20歳の時には、ついに、歌謡歌手として(カンツォーネ風の)「君にささげる僕の歌」でレコードデビューするのですが・・・
売上はパッとせず、
以降、
- 1969年「初恋は死んだ」
- 1969年「おやすみなさい恋人」
- 1970年「愛の世界」
- 1970年「誰もいない海」
と、シングルを4枚リリースするのですが・・・
どれもヒットには至らなかったのでした。
水木一郎は20~21歳の時にキャンペーンや営業で辛い思いをしていた
ちなみに、水木一郎さんがデビューして1年後ぐらいに、にしきのあきら(現・錦野旦)さん、野村真樹(現・野村将希)さんがデビューし、人気を博したそうで、
各社合同の新人サイン会では、水木一郎さんのところに誰も並んでくれず、辛い思いをしたそうで、このようなキャンペーンが嫌だったそうです。
また、テレビ局に売り込みに行った際に、渡したレコードをその場でゴミ箱に捨てられたことがあったほか、お酒の席で、
ビールつがなきゃ買うかよ、馬鹿野郎
などと、言われたこともあったのだそうです。
(このような経験から、水木一郎さんは、自分は歌謡曲には向いていないと思うようになったのだそうです)
「【画像】水木一郎の若い頃が凄い!デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く
1968年、20歳の時、歌謡歌手として「君にささげる僕の歌」でレコードデビューするも全く売れなかったことから、一旦は歌手を辞めるも、1971年、アニメ「原始少年リュウ」のオープニングテーマを歌唱したことがきっかけで、アニ …