1971年、衣装デザイナーとして芸能界入りすると、1975年には、双子の弟のおすぎさんとともに、双子のオカマコンビ「おすぎとピーコ」でテレビドラマデビューし、以降、ファッション評論家、ジャーナリスト、タレントなど、幅広く活動してきた、ピーコさん。
そんなピーコさんは、高校卒業後は大学進学を希望するも、お父さんが病気になったことから進学を断念し、トヨタ自動車(横浜トヨペット)に就職したそうですが、体を壊して半年で退職すると、19歳の時には、アパレル会社「サンヨーレインコート」に営業として就職。その後、洋服の勉強をちゃんとしなければ、との思いから、4年で退職し、文化服装学院に通い始めたといいます。
今回は、ピーコさんの、生い立ち(幼少期)から「サンヨーレインコート」時代をご紹介します。
ピーコのプロフィールは?本名は?芸名の由来は?
ピーコさんは、1945年1月18日生まれ、
神奈川県横浜市保土ケ谷区の出身、
血液型はA型、
学歴は、
横浜市立桜丘高等学校
⇒文化服装学院研究専門部卒業
ちなみに、本名は、「杉浦克昭」(すぎうら かつあき)で、「ピーコ」の由来は、サンヨーレインコート(三陽商会)で営業をしていた時代、倉庫で札をつける作業をしている時、黙々とこなしていると、すごく辛かったことから、お喋りをしていると、倉庫は音が響くため、それが本当にうるさかったようで、
ピーピーうるさいぞピーコ!!
と、言われたのがきっかけで、「ピーコ」と呼ばれるようになったのだそうです。
ピーコが幼い頃は両親からとてもかわいがられて育てられていた
ピーコさんは、鉄工場を営むお父さんのもと6人兄弟姉妹(兄1人姉3人と双子の弟のおすぎさん)の次男として誕生したそうですが、
お父さんが41歳、お母さんが36歳の時の子供で、当時としてはかなり高齢でできた子供だったことや、ピーコさんが誕生した時には、既にお兄さん(長男)1人とお姉さん(三女)1人が亡くなっていたほか、
両親は、戦争で何もかも失っていたことから、とてもかわいがられて育てられたそうです。
(長姉(長女)とは13歳、次姉(次女)とは9歳も年が離れていたそうです)
ピーコが幼い頃は母親に兄の役割を与えられていた
ただ、ピーコさんは、双子の弟のおすぎさんより、5分早く生まれたことから、
お母さんから、
あんた、お兄ちゃんなんだから
と、言われて育てられたそうで、
ピーコさんは、そのことについて、
母親には聞いたわよ、「どうして?」って。おすぎには言わないけど・・・。そうしたら「あの子はちょっと心配だけど、あんたはいいでしょ」っていうことを、母親は(言っていた)。
と、語っています。
ピーコが幼い頃は体の不自由な次姉に洋服をたくさん作ってもらっていた
また、次姉は、3歳の時(ピーコさんが生まれる前)に、脊椎カリエスという病気に感染した影響で、背骨で頭を支えられず、背中が子供のように小さく丸くなり、「18歳まで生きられない」と言われていたそうですが、
手先がとても器用だったため、洋裁の仕事をし、ピーコさんが子供の頃には、とてもたくさん洋服を作ってもらったそうです。
(ただ、お母さんが「双子に別々のものを着させると病気になる」という言い伝えを信じていたことから、中学を卒業するまで、おすぎさんとまったく同じ服だったそうです)
ピーコが幼い頃は父親によく映画を観に連れて行ってもらっていた
ピーコさんは、幼い頃は、映画が好きだったお父さんに、しばしば映画を観に連れて行ってもらったそうで、横浜の映画館で映画を観たあとは、必ず横浜伊勢佐木町の「森山キャンデーストア」というお店で、チョコレートサンデーなどを食べさせてもらったそうです。
また、お父さんは、ジャズ、浪曲、落語、歌舞伎など、映画以外の芸能も好きで、ピーコさんは、そんなお父さんにとても影響を受けたそうです。
(お父さんは、戦前はとても羽振りがよく、娘たちを連れて、タクシーで銀座に繰り出しては映画を観て、帰りには資生堂パーラーでご飯を食べて帰る、ということを毎週していたそうで、ピーコさんが生まれた頃は、それほど裕福ではなかったそうですが、お父さんは、その名残なのか、どこかへ行くと必ずお土産を買って来てくれるほか、新商品が世間に出回るとすぐに買ってきてくれるなど、とてもハイカラな人だったそうです)
ピーコは高校卒業後にトヨタ自動車に就職するも体を壊し半年で退職していた
ピーコさんは、中学・高校と成績優秀で、高校卒業後は、大学に進学したかったそうですが、お父さんが病気になってしまったため、進学を断念し、トヨタ自動車(横浜トヨペット)に就職したそうです。
しかし、倉庫では、コンテナの荷物をリフトで操作したり、自動車部品を背中に担ぐ力仕事をしていたせいで、身体を壊してしまったそうで、半年で退職したそうです。
ピーコは19歳の時にアパレル会社「サンヨーレインコート」に転職していた
その後、ピーコさんは、電飾工場への転職を経て、1964年、19歳の時には、アパレル会社「サンヨーレインコート」(三陽商会)に転職すると、営業に配属されたそうで、そこで4年間勤めたそうですが、
営業をやるにしても洋服の勉強をちゃんとやらないといけないと思い、23歳の時、「サンヨーレインコート」を退職し、新宿にある文化服装学院に通うことにしたそうです。
ピーコは23歳の時から2年間、文化服装学院で学んでいた
こうして、ピーコさんは、23歳からの2年間、文化服装学院で、洋服のデザイン、製図、裁断、縫製まで一通り教わったそうで、そのおかげで、製図を見ただけで、頭の中でどんな洋服ができるのかイメージできる技術がついたそうで、
ピーコさんは、
「このカットの仕方だと、このデザインの画通りにはならないわよ」とまで言えるようになりました。ほとんどそれだけを覚えて学校を出たようなもんです。
あとは、オートクチュールの仮縫いができるようになったぐらいかな
と、語っています。
ピーコは25歳の時に「サンヨーレインコート」に再就職していた
そんなピーコさんは、学費を稼ぐために、アルバイトをしていたそうですが、そのアルバイトのお給料が良く、「サンヨーレインコート」では正社員で4年間働いて月給が2万7500円だったのが、アルバイトでは月に3万円も稼いでいたそうです。
そして、文化服装学院を卒業後、「サンヨーレインコート」に再就職すると、今度は、嘱託で月に1度行くだけで、10万円ももらったそうで、
(一般の人のお給料が4~5万円の時代)
ピーコさんは、その10万円で帝国ホテルのバーでカクテルを飲んだり、赤坂のディスコ「ムゲン」で豪遊したりと遊んでばかりいたそうです。
また、仕事はと言うと、遊びの合間に、月1回、デザイン室を訪れては、海外の資料を見ながら、
いま、これがいちばん新しいものね
などとやるだけで良く、仕事はほとんどしていなかったのだそうです。
そんな中、やがては、他の社員からクレームがつき始めたそうですが、
会社からは、
せめて月に4回は来て下さい。給料は15万にしますから
と、泣きつかれて、お給料は15万円になったそうで、
今度は、フランス料理を毎週食べに行くなど、ますます、散財したそうで、文化服装学院での2年間はきっちり糧になったのだそうです。
「【画像】ピーコの若い頃は?現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1975年、双子の弟・おすぎさんとのコンビ「おすぎとピーコ」として本格的に芸能界デビューすると、たちまちブレイクし、1982年、コンビ解消後は、ワイドショーやバラエティ番組で、ファッションチェックを担当するほか、コメンテ …