1989年には、近鉄バファローズの一軍投手コーチとして、吉井理人投手などを育ててリーグ優勝に貢献するほか、1998年には、横浜ベイスターズ(現・DeNA)を監督就任1年目にして38年ぶりのリーグ優勝&日本一に導くなど、指導者としても素晴らしい功績を残した、権藤博(ごんどう ひろし)さん。
今回は、そんな権藤博さんの若い頃(現役引退後~コーチ&監督時代)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。
権藤博の30代の頃(現役引退後)
31歳~34歳の時に東海ラジオで野球解説者として活動していた
1968年、30歳で現役を引退した権藤博さんは、1969年~1972年、東海ラジオで野球解説者として活動するのですが、解説の仕事は月に2、3度しかなく、空いている時間には、知人とゴルフに出かけ、月の半分はコースに出るようになったそうです。
(そのため、権藤博さんは、プロゴルファーになるのでは、との噂が立ったそうですが、権藤博さん本人はそんな気持ちはなかったそうです)
31歳~34歳の時にはサラリーマンをしていた
しかし、そんな中、権藤博さんは、ダンロップスポーツ中部の経営者・相羽義朗さんに、
フラフラと遊んでばかりいたらいかん
野球解説の仕事しながらでいい。私の会社で働きなさい
と、救いの手を差しのべられ、ブリヂストン以来2度目のサラリーマン生活を送るようになったそうで、
権藤博さんは、このことについて、
名古屋市内にある会社で伝票を書き、デパートなどでは棚卸し作業を行い、野球解説の日は午後から球場に出向いた。
知らぬ間に道を踏み外そうとしていた私を軌道修正してくれた相羽社長は野球をまっとうさせてくれた大恩人だ
と、語っています。
34歳の時に中日の二軍投手コーチに就任
すると、1973年、34歳の時には、与那嶺要監督に招かれて、中日の二軍投手コーチに就任したそうですが、1975年のオフ、自費でアメリカのルーキーリーグを視察に訪れると、
この時、現地のコーチの
Don’t over teach(教え過ぎるな)
という指導を目の当たりにし、衝撃を受けたそうで、
権藤博さんは、
できないから教える。知らないから教える。でも、日本の野球はレベルが高いので、できない人や分からない人もいないんです。
なので頑張り方を教えた。『あなたはこの球で勝負しなさい』『この速さで勝負しなさい』と。それを教えるのがコーチの仕事
と、語っており、
辛抱強く見守ること、丁寧に教えることを心に深く刻んだのだそうです。
権藤博の40代の頃
42歳の時に一軍投手コーチに就任し投手分業制を確立
そんな権藤博さんは、1973年から8年間の二軍投手コーチを経て、1981年、42歳の時には、中日の一軍投手コーチに就任すると、近藤貞雄監督のもと、投手分業制を確立し、先発、中継ぎ、抑えと、投手寿命を延ばすことに力を注いだそうで、
権藤博さんは、
選手の痛みが分かるのは、3年目から苦しんで挫折を味わったから。それがコーチとして生きた
と、語っており、
自身の現役時代の経験から選手の痛みを理解し、寄り添うことに努めたのだそうです。
(1974年と1982年、中日のリーグ優勝に貢献しています)
49歳の時に近鉄一軍投手コーチに就任
しかし、やがて、権藤博さんは、投手起用を巡り、近藤貞雄監督の采配に疑問を感じるようになったそうで、1988年、49歳の時には、近鉄バファローズの監督だった仰木彬監督に招聘(しょうへい)され、近鉄一軍投手コーチに就任します。
すると、権藤博さんは、くすぶっていた山崎慎太郎投手を先発ローテーションに入れ、加藤哲郎投手を再生し、吉井理人投手ををストッパーに抜擢すると、近鉄でプロ4年間にしてわずか2勝だった吉井理人投手は、権藤博さんの「Don’t over teach」の指導の元、クローザーとして大ブレイクを果たしたそうで、
吉井理人投手は、権藤博さんの指導について、
『お前たちはプロなんだから技術はこっちから教えるものは何もない。マウンドで戦う姿勢を見せてくれ』と。逃げたら怒られました。
『打たれたらオレの責任だから、思い切ってどんどん行け』と言われていて、そのおかげで大事な場面でも変な緊張をしないで投げられたと思います
と、語っています。
権藤博の50代の頃
50歳の時に近鉄の9年ぶりのリーグ優勝に貢献
こうして、前年リーグ最下位だった近鉄は、投手陣が奮闘し、西武ライオンズとの優勝争いに持ち込むと、2連勝すれば中日が優勝という試合で、1試合目は辛くも勝利するのですが、2試合目では延長の末、引き分けになったことで近鉄は優勝を逃してしまいます。
しかし、翌年の1989年には、近鉄は9年ぶりのリーグ優勝を果たしたのでした。
50歳の時に近鉄を辞任
こうして、権藤博さんは、選手たちから信頼され、リーグ優勝にも貢献したのですが・・・
選手に寄り添おうとした権藤博さんは、上に立つ仰木彬監督と衝突を繰り返し、違約金1300万円を支払って同年限りで辞任したのでした。
ちなみに、権藤博さんは、近鉄のコーチを辞任したことについて、
決めるのは監督だと分かってはいるんです。だけど、あなたが私を呼んだんじゃないんですかと。だから私は言うんですよ。だんだんとやっかみが多くなり、最後は別れなきゃいけなくて
と、語っています。
また、
もし自分が上に立つようになったら、絶対に同じことはやらない
と、決意したそうです。
52歳の時にダイエーの一軍投手コーチに就任
権藤博さんは、近鉄のコーチを辞任後の1990年、51歳の時には、東海テレビ野球解説者、日刊スポーツ野球評論家として活動していたのですが、1991年、52歳の時には、ダイエーの一軍投手コーチに就任すると、
阪神からダイエー移籍後、先発だった池田親興投手をストッパーで起用するほか、コーチ3年目の1993年には、田淵幸一さんが監督を辞任後、根本陸夫さんが監督になると、さっそく、実戦経験を積ませることが大成への近道だと、二軍でくすぶっていた下柳剛投手の起用を、再三、進言。
根本陸夫監督は、分かったと言って、すべて任せてくれたため、過去2年間で1試合しか登板のなかった下柳剛投手をを50試合で使ったのだそうです。
(田淵幸一前監督は、目先の勝利にこだわるあまり、この進言を受け入れてくれなかったそうです)
58歳の時に横浜ベイスターズの一軍バッテリーチーフコーチに就任
権藤博さんは、1993年、54歳の時に、ダイエーの一軍投手コーチを退任すると、その後は、フジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ野球解説者・中日スポーツ野球評論家として活動していたのですが、
1997年、58歳の時には、横浜ベイスターズの一軍バッテリーチーフコーチに就任すると、チーム防御率は前年最下位の4.67から3.70に改善するなど投手陣を整備し、チームの2位躍進に貢献しています。
59歳の時に横浜ベイスターズの監督に就任すると1年目にして38年ぶりのリーグ優勝&日本一に導いていた
そして、1998年、59歳の時には横浜ベイスターズの監督に昇格すると、なんと、監督就任1年目にして、チームを38年ぶりのリーグ優勝&日本一に導いています。
1998年、日本一に輝き、胴上げされる権藤博さん。
ちなみに、権藤博さんは、ここでも「教えない教え」を実践するほか、
- 選手たちに「監督」と呼ばず、「権藤さん」と呼ぶように指導した
- 用件がある時は監督室に呼びつけず、自ら選手やコーチの元に出向いた
- 二軍降格を選手に言い渡す際も、コーチからではなく自身の口で理由とともに伝えた
- シーズン中、先発投手は長い回を投げさせず、中継ぎ投手は数人でローテーションを組んだ
などを心がけていたそうです。
そんな権藤博さんについて、サイクル安打を史上唯一3度達成したロバート・ローズさんは、
タレント揃いのメンバーが集まったチームだと権藤さんは感じていたと思う。そして、彼はメンバーをのびのびプレーさせた。良いチームの良い監督はそういうものです
と、語っており、「最高のボス」と慕っています。
また、権藤博さんの下で3年間、ヘッドコーチを務めた山下大輔さんは、
自身の経験もあったと思うが、チームが勝つことだけに走らず、投手の疲労がたまらないような使い方を1年間ずっと考え、戦っていた
と、証言。
そして、投手陣の象徴で、絶対的なクローザーだった佐々木主浩さんは、
(権藤さんは)ブルペンにずっといますけど、無駄なことは言わない。『任せた』で終わりです。打たれようが、何しようが『お前に任せたから』という感じでした
権藤さんを胴上げしたいと思っていましたし、何回が最高なのか胴上げの回数も調べました。なので、最高記録(10回)を出しました
と、語っています。
(権藤博さんは、その後も2000年まで横浜ベイスターズの監督を務め、いずれもチームはAクラス入りを果たしています)
権藤博の60代~70代の頃
62歳~73歳の時には評論家として活動していた
権藤博さんは、横浜ベイスターズの監督退任後は、2001年~2011年には東海ラジオ、2009年~2011年には東海テレビ、2001年~2008年、野球評論家として活動しています。
(その間、様々な球団からコーチの誘いがあったそうです)
73歳の時に中日ドラゴンズの一軍投手コーチに再び就任
そんな権藤博さんは、2012年、73歳の時には、現役時代の同僚でもある高木守道さんが中日ドラゴンズの監督に復帰するに伴い、一軍投手コーチに再び就任しているのですが、
日本プロ野球球団の現役監督・コーチでは最高齢で、12年ぶりに現場への復帰を果たしています。
(投手コーチという肩書ではあったものの、実際には、ヘッドコーチ格として高木守道監督を支えたそうです )
74歳の時に評論家に復帰
権藤博さんは、2012年10月24日に、中日ドラゴンズを退団すると、2013年からは、東海テレビ・東海ラジオ野球解説者としての活動に復帰するとともに、日刊スポーツの野球評論家としても活動しています。
77歳で日本代表の投手コーチに就任すると小久保裕紀監督が舌を巻く驚きの手腕を発揮していた
そして、権藤博さんは、2016年1月28日(77歳)には、「侍ジャパン強化試合 日本vs台湾」の日本代表投手コーチを務めることが発表され、「2017年度 WBC」でも日本代表の投手コーチを務めているのですが、
実は、2016年に、当時の「侍ジャパン」の監督・小久保裕紀さんが、権藤博さんに投手コーチを依頼したそうで、
小久保裕紀さんは、2015年の「プレミア12」準決勝の日韓戦で逆転負けを喫しており、そんな中、権藤博さんから反省会をしようと電話をもらい、野球談議に花を咲かせたそうで、
その後、2人で1杯290円のラーメン店に入ったそうですが、この時に、小久保裕紀さんは権藤博さんに「力をお借りしたい」と頭を下げたのだそうです。
こうして、権藤博さんは、77歳にして、侍ジャパンの投手コーチに就任しているのですが、小久保裕紀さんは、ここで、権藤博さんの驚くべき手腕を目の当たりにしたといいます。
小久保裕紀さんは、
印象に残っているのはオランダ戦です。予想通りの乱打戦になり、こっちが5点取ってもすぐに追いつかれるので、1イニングでも早く千賀(滉大)につなげたかった。
けれど、権藤さんは『監督、こういう乱打戦は誰が投げても一緒です。経験がある平野(佳寿)にいかせましょう(と助言された)
と、平野佳寿投手を登板させると、試合の風向きが変わったそうで、
小久保裕紀さんが、
もう1イニングいきましょう
と、言ったそうですが、
今度は、権藤博さんに、
監督、そこが甘いんです。この展開でスパッと帰ってきた平野の仕事はこれで終わりなんです。この次が千賀なんです
と、返され、
そこから、試合は投手戦へと変わり、日本の準決勝進出へとつながっていったそうで、
小久保裕紀さんは、
驚きのオランダ戦でした
と、権藤博さんの手腕に舌を巻いたことを明かしています。
権藤博の80代(現在)
そんな権藤博さんは、2019年1月、80歳の時には、野球殿堂入りを果たしているのですが、同年12月2日、権藤博さんの誕生日に野球殿堂入り祝賀パーティーが開かれると、かつての戦友たちが駆けつけてくれたそうで、
権藤博さんは、スピーチで、
これだけの人がお祝いに来てくれたことが一番です。友達は財産。友達をいくらもっているかだと思います。家族にもありがとう
と、コメントしています。
野球殿堂入り祝賀パーティーの権藤博さん。
「権藤博の妻は?娘は外資系社長!山口洋子に婚約不履行で訴えられていた!」に続く
現役引退後は、中日、近鉄、ダイエーの3球団で投手コーチを歴任すると、1998年には、横浜ベイスターズで、バッテリーコーチを経て、横浜の監督に就任し、「マシンガン打線」と呼ばれる切れ目のない強力な攻撃陣と、盤石な分業制の投 …