1964年、映画「女体」で俳優デビューすると、1967年には、映画「日本のいちばん長い日」で注目を集め、その後は、東宝のアクションスターとして人気を博し、以降、数多くの映画やテレビドラマに出演するほか、歌手、タレントとしても幅広く活躍している、黒沢年雄(くろさわ としお)さん。
今回は、そんな黒沢年雄さんの、若い頃から現在までの活躍や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。
「黒沢年雄の生い立ちは?弟達を養うため高校中退して働きつつ俳優を目指していた!」からの続き
黒沢年雄が20代の時は映画「女体」で俳優デビューすると「日本のいちばん長い日」で注目されるも東宝を解雇され自殺を考えていた
20歳~22歳の時には岡本喜八、松林宗恵、成瀬巳喜男などの作品に出演していた
黒沢年雄さんは、1964年、20歳の時、映画「女体」で俳優デビューすると、
以降、
- 1964年(20歳)「ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば」
- 1965年(21歳)「侍」
- 1965年(21歳)「エレキの若大将」
- 1966年(22歳)「社長千一夜」(小川次郎役)
- 1966年(22歳)「女の中にいる他人」
など、岡本喜八監督、松林宗恵監督、成瀬巳喜男監督などの作品に端役として出演しています。
「エレキの若大将」より。(左から)黒沢年雄さん、江原達怡さん、田中邦衛さん、加山雄三さん。
22歳の時に成瀬巳喜男監督の「ひき逃げ」で主人公の弟役に抜擢されていた
そして、1966年、22歳の時には、成瀬巳喜男監督の「ひき逃げ」で、主人公の弟役というメインキャストに抜擢されているのですが、
黒沢年雄さんは、その理由について、
成瀬監督はたった一言のセリフを聞いて、主演に抜擢(ばってき)してくれたんです。
と、語っています。
「ひき逃げ」より。黒沢年雄さんと高峰秀子さん。
23歳の時に岡本喜八監督作品「日本のいちばん長い日」で青年将校を演じ注目されていた
そんな黒沢年雄さんは、1967年、23歳の時には、映画「日本のいちばん長い日」で、クーデターを画策し自決する青年将校を演じると、そのパワフルで男性的なキャラクターは、「第二の三船敏郎」として、たちまち注目を集め、大きな話題となったのでした。
「日本のいちばん長い日」より。
25~26歳の時には「死ぬにはまだ早い」等でアクションスターとして高く評価されていた
そして、黒沢年雄さんは、その後も、
- 1969年(25歳)「死ぬにはまだ早い」
「死ぬにはまだ早い」より。 - 1696年(25歳)「野獣の復活」
- 1970年(26歳)「野獣都市」
「野獣都市」より。 - 1970年(26歳)「激動の昭和史 軍閥」
- 1970年(26歳)「白昼の襲撃」
- 1970年(26歳)「栄光への反逆」
などの、戦争もの、ハードボイルド、サスペンスの映画で、ギラギラとしたワイルドな魅力を全面に押し出した孤独な一匹狼役を多く演じると、アクションスターとして高く評価されたのでした。
(松田優作さんは、若い頃、この「死ぬにはまだ早い」を何度も観るほどの熱狂的なファンだったといいます)
27歳の時に東宝を解雇され自殺を考えていた
こうして、俳優としては高く評価された黒沢年雄さんですが・・・
興行的にはどれも失敗に終わっていたことから、1971年、27歳の時、「五社協定」がなくなると、黒沢年雄さんは解雇されてしまい、フリーにならざるを得なくなってしまったといいます。
(「五社協定」とは、日本の大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が1953年9月10日に調印した、専属監督・俳優らに関する協定で、後に日活が加わり、新東宝が倒産するまでの3年間は六社協定となっていたのですが、1971年をもって五社協定が消滅すると、多くの俳優が映画会社を解雇されたそうです)
そんな中、一家の大黒柱だった黒沢年雄さんは、この頃、ようやく、貧乏生活から抜け出し、横浜にマンションを買ったばかりだったことから、「このままじゃ仕事がなくなる」「そのベランダから飛び降りようか」と、自殺まで考えたそうです。
ただ、ここでも、黒沢年雄さんは、16歳の時に亡くなったお母さんの最期の言葉「年男、(3人の弟たちを)頼むよ」が頭をよぎり、このままでは終われないと思い直したのだそうです。
黒沢年雄が30代の時には「やすらぎ」「時には娼婦のように」が大ヒットするほか「ザ・ハングマン」で人気を博していた
31歳の時に13枚目のシングル「やすらぎ」がヒット
そんな黒沢年雄さんは、1966年に「僕の恋人どこにいる」でレコードデビューを果たして以来、歌手としても活動しいたそうですが、
フリーとなってから、日本コロムビアのプロデューサーに声をかけてもらったそうで、1975年5月、31歳の時、13枚目のシングル「やすらぎ」をリリースすると、たちまち、大ヒットを記録しています。
「やすらぎ」より。
34歳の時に19枚目のシングル「時には娼婦のように」が累計売上70万枚の大ヒット
そして、1978年、34歳の時にリリースした19枚目のシングル「時には娼婦のように」は、累計売上70万枚に達する大ヒットを記録したのでした。
「時には娼婦のように」より。
ちなみに、この「時には娼婦のように」は、なかにし礼さんが作詞・作曲をしているのですが、歌詞が性的できわどい内容だったため、黒沢年雄さんは、当初、歌うのが嫌だったそうで、
作詞家のなかにし礼さんは僕の顔を見て曲が浮かんだ、と言ってました。そのころ僕は「結婚したい独身男性ナンバーワン」に選ばれていたんです。プレイボーイで男の塊のような顔に見えたらしいです。実際は違うんですけどねえ。
と、語っています。
また、この曲がヒットした理由については、
僕には才能も何もないんですよ。それはよくわかってる。スタイルはよくないし、歌だってうまくない。でも、そこをなんとか自分のオリジナリティーを出すことで生き延びてきた。
「時には娼婦のように」もちょっと投げやりに、わざと抑揚をつけずに、嫌々歌ってるようにした。それがウケたんです。もともと歌詞がいいですからね。
と、語っています。
一方、なかにし礼さんは、このような曲を作った理由について、
ニューミュージック歌手の中には、テレビに迎合する者も少なくなかった
彼らは去勢されたような声を出して歌っていた
そんな音楽界に対するアンチテーゼとしてつくった
当時台頭していたニューミュージックへの挑戦状だった
などと、語っています。
36歳の時にテレビドラマ「ザ・ハングマン」シリーズで人気を博していた
また、黒沢年雄さんは、1980年、36歳の時には、テレビドラマ「ザ・ハングマン」で日下部孝介役を演じているのですが、
このドラマは、
- 1980~1981年「ザ・ハングマン 燃える事件簿」
- 1982年「ザ・ハングマンII」
- 1986年「ザ・ハングマンV」 第9話
- 1987年「ザ・ハングマン6」第7話
と、シリーズ化され、黒沢年雄さんもさらなる人気を博したのでした。
「ザ・ハングマン」より。
黒沢年雄が40代の時には二前目路線から一転して「踊る!さんま御殿!!」などバラエティ番組に進出していた
48歳の時に大腸ガンが判明すると俳優の仕事が激減していた
その後も、黒沢年雄さんは、テレビドラマを中心に、安定した活動を続けていたのですが・・・
1992年、48歳の時、大腸ガンが判明し、手術を余儀なくされたそうで、記者会見を開いて、休養することを発表すると、「ガン」という病名の衝撃は大きく、仕事が激減したといいます。
40代の時には二枚目路線から一転してバラエティ番組に進出し「踊る!さんま御殿!!」で人気を博していた
そんな中、黒沢年雄さんは、再び、考えを切り替え、2000年、56歳の時には、名前も「黒沢年男」から「黒沢年雄」に変え、心機一転、今度は、バラエティ番組に出演するようになったそうで、
(黒沢年雄さんは、それまで、本名の「黒沢年男」で活動していました)
「踊る!さんま御殿!!」に出演すると、明石家さんまさんがおもしろがってくれ、レギュラーとして出演することになったのだそうです。
黒沢年雄が50代の時には「オウミ住宅」のCMでコミカルなダンスを披露していた
また、黒沢年雄さんは、1997年(53歳)頃には、滋賀県にある住宅関連企業「オウミ住宅」のCMで、パンチみつおさんとともに、音楽に合わせてコミカルなダンスを踊る姿が大きな話題となっています。
「オウミ住宅」のCMより。パンチみつおさん(左)と黒沢年雄さん(右)。
黒沢年雄の60代~現在(80代)
そんな黒沢年雄さんは、2010年頃(66歳)からは、自身がガンを患ったことや、これまでの芸能生活をテーマに講演活動を行うようになったほか、2019年、75歳の時には、年間80本ものコンサートを開催するなど、精力的に活動していたのですが、
2024年、80歳の時には、妻の街田リーヌさんが闘病していること、また、そんな奥さんを2年にわたって介護するも、現在、奥さんは入居施設で暮らしていることを、自身のブログで明かしており、現在は、奥さんと過ごす時間を優先しているようです。
「黒沢年雄の妻・街田リーヌとの馴れ初めは?要介護?娘は黒沢レイラ!」に続く
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