数多くのワイドショーで芸能リポーターとして活躍するほか、事件・事故現場のリポーターとしても活躍し、「現場の東海林です」というフレーズでお馴染みとなった、東海林のり子(しょうじ のりこ)さん。

そんな東海林のり子さんは、おじいさんの時代から質屋を営む裕福な家庭で、何不自由なく、すくすく育ち、小・中・高校時代は、歌、踊りなどの芸事のほか、スポーツなど幅広く活動したといいます。

また、高校卒業後、大学に進学すると、ESS(英語サークル)に入部し、英語劇に出演したそうですが、そこで、1学年下の後輩・野際陽子さんと知り合ったといいます。

今回は、東海林のり子さんの、生い立ち(幼少期から立教大学時代まで)をご紹介します。

東海林のり子

Sponsored Link

東海林のり子のプロフィール

東海林のり子さんは、1934年5月26日生まれ、
埼玉県浦和市(現・埼玉県さいたま市浦和地区)の出身、

身長151センチ、

血液型はA型、

本名は、「東海林範子(読み方同じ)」で、旧姓は「青羽のり子(あおば のりこ)」

学歴は、
埼玉県師範学校附属小学校・中学校(現在・埼玉大学教育学部附属小学校・中学校)
⇒埼玉県立浦和第一女子高等学校
⇒立教大学文学部英文学科卒業

趣味は、映画鑑賞、音楽観賞(ハードロック)、パチンコ、

だそうです。

東海林のり子が幼い頃は裕福な家庭で何不自由なく育っていた

東海林のり子さんは、商店街で質屋を営む両親のもと、4人姉妹の末っ子として誕生すると、祖父母とお手伝いさんが同居し、姉妹1人ずつに”ねえや”(若いお手伝いさん)がついて面倒をみてくれる裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。

(おじいさんが、明治の廃藩置県をきっかけに何か商売をしようと浦和に出てきて質屋を始めたそうです)

ちなみに、東海林のり子さんの面倒を見てくれていたのは、「たけや」というねえやだったそうですが、「たけや」さんは、同じく、東海林のり子さんの家で同居していた書生さんと恋仲になり、東海林のり子さんをおんぶしてデートに行ったそうで、

東海林のり子さんは、そんな古き良き時代の光景が今でも忘れられず、良い思い出になっているそうです。

東海林のり子が幼い頃は歌と踊りが上手だった

そんな東海林のり子さんは、歌舞伎が好きだったお母さんの勧めで、ほかの姉妹とともに長唄と踊りを習わされたそうで、

幼い頃、よく、お母さんに浴衣を着せてもらい、日傘を持って商店街の中を踊りながら歩いていると、周りのお店の人達から「上手だね」と声をかけてもらったそうです。

また、東海林のり子さんは、歌(演歌)も好きで、上手だったことから、近所の人にせがまれると皆の前で歌ったりしていたそうです。

東海林のり子が小学1年生の時は太平洋戦争が始まり餓えに苦しんでいた

しかし、1941年、小学1年生の時、太平洋戦争が始まると、庭に防空壕(ごう)を掘り、戦略爆撃機B29が飛んでくるたびに、その中へ逃げ込んだそうですが、戦争中は、恐怖感よりも、食糧難によるひもじさのほうが強かったそうで、

小学6年生で終戦を迎えるも、その後、しばらくは食糧難は続いたため、お昼はさつまいもだけ、ということがしょっちゅうあったそうです。

東海林のり子は中学生の時に水泳50m自由型で県の新記録を達成していた

そんな東海林のり子さんですが、中学時代には、担任だった体育教師に勧められ、バレーボールに打ち込んだほか、水泳も得意だったそうで、水泳では、50メートル自由型で埼玉県記録を更新したといいます。

東海林のり子は高校時代、ボート部に入部するも足が太くなると言われ退部していた

また、東海林のり子さんは、高校に進学すると、1年生の時にボート部に入部したそうですが、足が太くなると言われて退部すると、その後は長唄クラブに入部したそうです。

東海林のり子

Sponsored Link

東海林のり子は大学時代にESS(英語サークル)で野際陽子と知り合っていた

そして、高校卒業後は、立教大学に進学すると、英語が好きだったことから、ESS(英語サークル)に入部し、英語劇にも出演したそうですが、1学年下の後輩で後に女優となる野際陽子さんがいつも主役だったそうで、

東海林のり子さんは、

彼女の美貌はそのころから際立っていました。言い寄ってくる男たちをさばくのが私の役回りだったけど、楽しい4年間でしたね

と、語っています。

(野際陽子さんとは、「ノッコ」、「ノギ」と呼び合うほど親しかったそうで、その友情は、2017年に野際陽子さんが亡くなるまで続いたそうです)

「【画像】東海林のり子の若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link