1957年にニッポン放送(ラジオ)にアナウンサーとして入社し、1970年に退社すると、その後、フリーとなり、1971年以降は、「小川宏ショー」「3時のあなた」「おはよう!ナイスデイ」などのテレビのワイドショーで、リポーターやナレーターとして活躍した、東海林のり子(しょうじ のりこ)さん。
今回は、そんな東海林のり子さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を、デビュー(ニッポン放送のラジオアナウンサー時代)から時系列でまとめてみました。
「東海林のり子の生い立ちは?幼少期から裕福!大学時代はESS(英語サークル)!」からの続き
東海林のり子は20代の時にニッポン放送にラジオアナウンサーとして入社していた
大学卒業後はニッポン放送にラジオアナウンサーとして入社
東海林のり子さんは、大学4年生の就職活動の時期、開局3年目のニッポン放送(ラジオ)が女性アナウンサーを募集していることを知り、応募すると、応募者2,000人の中から、見事、合格したそうで、
(採用枠はわずか8名(男女各4名ずつ)だったそうです)
1957年、大学卒業後(22歳)、ニッポン放送にラジオアナウンサーとして入社したそうです。
ちなみに、東海林のり子さんは、狭き門をくぐり抜けたことについて、
男女各4人ずつ。試験は8次まであり、周りはアナウンス学院や放送関係の学校で勉強して「絶対にアナウンサーになる!」という人ばかりだったので、まさか自分が受かるとは思っていませんでした。
試験で大きな声でしゃべったことと、無欲が幸いだったのかもしれませんね(笑)。
と、語っています。
22歳の時にはジオアナウンサーの研修で先輩から怒られてばかりだったため辞めようかと悩んでいた
ただ、研修では先輩から怒られてばかりだったそうで、辞めようかとも思ったそうですが、
どうせ、一番じゃないから後ろからついていけばいいか
と、思うと、気が楽になったそうで、
そのうち、インタビュー番組でディスクジョッキーを任されるなど、次第に仕事が面白くなっていったそうす。
また、話の上手な女性たちが、どんどん、寿(ことぶき)退社していったことから、これをラッキーなことだと思うようにし、それならしばらく、ここで仕事を続けようと思ったのだそうです。
ニッポン放送時代の東海林のり子さん。
東海林のり子は30代の時にラジオアナウンサーからテレビのリポーターに転身していた
36歳の時にニッポン放送を退社
それでも、女性は、男性のアシスタント的な存在で、番組のメインを務めることはできず、
東海林のり子さんが、
ニュースを読ませてほしい
と、上司に言っても、
女はニュースを読めない(女が読むと信憑性がなくなるという意味)
と、言われたそうで、
東海林のり子さんは、入社14年目の1970年、36歳の時に、ニッポン放送を退社したのだそうです。
(東海林のり子さんは1968年に最初のお子さんを出産しており、その育児のために退社したという話しも)
37歳の時に情報番組(テレビ)のリポーターに転身していた
その後、東海林のり子さんは、育児に専念していたそうですが、1年ほど経った頃、フジテレビから「情報番組のリポーターをやらないか」と声をかけられたそうで、1971年、37歳の時には、「東京ホームジョッキー」という夕方4時からの生放送番組のリポーターをすることになったそうです。
ちなみに、この「東京ホームジョッキー」は、
スーパーのチラシのような情報を提供する
という、それまでにないスタイルの番組で、
東海林のり子さんは、団地で食材を売るなどテレビショッピングの先駆けとなるコーナーにリポーターとして携わったそうですが、
東海林のり子さんは、
若いリポーターにはできない、主婦目線が買われてのオファーだったと思います。テレビは未経験でしたが、直感で面白そうだと思ったので、「やります」と即答で受けました。
収録の合間には奥さんたちと立ち話をして、彼女たちが日ごろ何を考えているのか、何に興味を持っているのか、実際に自分の目で見て話を聞いて取材しました。
この体験が私の原点となり、事件リポーターとしての「現場」につながっていったと思います。
と、語っています。
東海林のり子は40代の時に「小川宏ショー」を経て「3時のあなた」で本格的に事件リポーターとして活動するようになっていた
46歳の時にはワイドショー「小川宏ショー」で主に芸能リポーターとして活動するも事件の現場リポーターのオファーを受けていた
そんな東海林のり子さんは、1980年頃(46歳)からは、ワイドショー「小川宏ショー」などで、主に芸能リポーターとして活動していたそうですが、
ある日のこと、東海林のり子さんが、自身の子供を公園で遊ばせて家に帰ると、テレビ局から電話がかかってきて、
お子さんが殺された事件があって、遺体が保護者宅に戻ってくる。その現場に行けますか
と、言われ、
子供を近所の奥さんに預けて現場に向かうと、
東海林のり子さんの仕事はというと、遺体を待つ父親にマイクを向けてインタビューすることだったそうで、(遺族へのインタビューは初めてだったため)正面からマイクを相手に向けられず、いつの間にか、足元に向けてマイクを握っていたそうです。
それでも、スイッチが入っていたため、かろうじて声を拾うことができたそうで、
ディレクターからは、
マイク向けてないのによく声が録れましたね
と、言われ、
これがきっかけとなり、ワイドショー「3時のあなた」に呼ばれ、事件リポーターとして活動するようになっていったのだそうです。
誰もやりたがらないことから事件・事故のリポーターを任されるようになっていた
そして、他の人はみな、(辛い)事件・事故はやりたがらなかったため、いつしか、
東海林さんがいいんじゃないか
と、言われるようになり、
東海林のり子さんも、現場をほかの人に任せたくないと思うようになったそうで、
東海林のり子さんは、
戦争体験とはぜんぜん違うんですが、身につく体験でした。大きな事件や事故の取材を素通りするのではなくて、深く体験したことで、自分の柱になっていったのだと思います
と、語っています。
事件現場に立つ東海林のり子さん。
事件現場では皆と一緒に帰るふりをして後で現場に戻り取材していた
ちなみに、当時は、事件現場の取材には男性しかおらず、
東海林のり子さんが、初めて現場に行った時には、
女に取材できるのか?
という視線を感じたそうですが、
逆に、
絶対負けない
と、反骨精神が生まれたそうで、
東海林のり子さんは、報道の人たちが「今日はこの辺で」と一斉に帰った後、一緒に帰るふりをして現場に戻ってきたのだそうです。
すると、周辺の奥さんたちが家から出てきて話し始めたそうで、そこに突っ込んでいくと、インタビューが取れたそうで、
東海林のり子さんは、
「え~。私、ワイドショーなんか1回も見たことない」って、奥さんたちが言うの。だけど、毎日チェックしてるのよ。
話を聞くと、すぐわかる。でも、熱心な視聴者だと知られたくない。(ワイドショーは)そのくらいの位置にあったわけ。
と、語っています。
(同じニュースでも、報道と違ってワイドショーの視聴者は女性中心のため、「奥さんの気持ちを伝える」ことがワイドショーの役割だと考え、報道と差をつけたのだそうです)
東海林のり子が50代の時は東京・埼玉で起こった連続幼女誘拐殺人事件で被害者の母親から独占インタビューを取ることに成功していた
また、東海林のり子さんは、1988年、54歳の時には、東京・埼玉で起こった連続幼女誘拐殺人事件で、被害者の母親から独占インタビューを取ることに成功しているのですが、
東海林のり子さんは、その時のことについて、
まだ犯人が捕まる前、ご自宅に何回も通っているうちに、(被害者の母親が)「東海林さんなら話しますよ」と言ってくれたの。
ちょうどその頃、取材の殺到を避けるため、マスコミ各社が報道協定を結んで、1社だけの代表取材を始めていた。報道局に「インタビューを取り付けました」と伝えたら、「こっちが仕切ってるから」と素っ気なく返された。
「今日はフジテレビの当番だから、報道局が取材に行く」と言われたの。理不尽に感じたから、「なんでワイドショーにやらせてくれないんですか?」と反論した。結局、私が行きました。
同じ母親として気持ちが通じたんでしょうね。周りは「いろんな貢物(みつぎもの)をしたからだ」と陰口を叩いていたみたい。クリスマスの時、サンタクロースの足の形をしたキャンディをプレゼントしたんですよ。
「ドアは開けなくていいです。取っ手に掛けますから」と置いて帰ったの。その1回しかあげてないのにね。
と、語っています。
そんな東海林のり子さんは、事件・事故現場のリポーターとして、加害者の自宅直撃での殴打未遂騒動、昭和のテレビでも放送できないような餓死寸前の女の子、親に鎖で繋がれ足の肉がほとんどなくなっていた男の子との遭遇など、想像を絶するような体験をしたそうですが、
(取材した事件は3,000件を超え、取材内容を記録したノートは68冊にのぼったそうです)
ここまで、続けてこられた理由について、
ほとんどのレポーターは、事件を嫌がるのよ。時間が掛かるし、何時に終わるかもわからないから。だけど、私はすごく興味を持った。現実に引き付けられたのかな。
と、語っています。
東海林のり子は60歳の時、阪神・淡路大震災をきっかけにリポーターの活動を引退していた
しかし、そんな東海林のり子さんも、1995年、60歳の時、阪神・淡路大震災をきっかけに、リポーターとしての活動に終止符を打つことを決意したといいます。
というのも、東海林のり子さんは、
もうこれ以上に悲惨な現場に出会うことはない
と、語っており、
ちょうど60歳になったタイミングでもあり、「これを区切りにしよう」と現場を離れる決意をしたのだそうです。
そして、東海林のり子さんは、引退を決意するきっかけとなった阪神・淡路大震災の現場について、
360度どこを見回しても凄惨な状況をテレビ画面に収めるのは無理なんです。ビルが崩れ落ちている様子や、救援に当たる人たちの姿をカメラで撮って、「こんなに大変なんです」と言葉を尽くして説明しても、離れた場所から観ている人たちには実感が伝わらない。
だから、東京のスタジオからはより衝撃的な情報を求められるんですね。生中継でインタビューをする時に、「被災者の人にもっと、『何々がほしい』とか言ってもらえませんか」って。
「それは違う」と反発を感じ、スタジオに「皆さん、寝てないんです。疲れ切っていて、とてもそんなことを言える状況ではありません」と伝えました。
それでも、インカムから「何か言ってもらってください」と指示が聞こえた時に、「これは限界だな」と感じました。どんなに必死になっても、ここで起きていることの凄まじさを伝え切ることはできないと思い知らされたんです。
と、語っています。
阪神・淡路大震災をレポートする東海林のり子さん。
東海林のり子の60代~80代は、司会、コメンテーター、講演活動
こうして、リポーターを引退した東海林のり子さんは、その後、テレビ朝日へと移籍し、司会やコメンテーターの仕事を中心に活動するようになるのですが、
そのかたわら、人生、教育、芸能などの内容で、「人生Yesの法則」「少年事件から考える子育て」「リポーターとして妻として」「私の出逢った素敵な人達」「取材現場から防災を考える」「幸福に生きる」などをテーマに、全国で講演を行っていたといいます。
東海林のり子の現在(90歳)は悠々自適
そして、2024年(90歳)現在は、6年前にご主人に先立たれたため、関東近郊のマンションで一人暮らしをしているそうですが、
大好きな韓国ドラマを見るなど、楽しみながら毎日を過ごす中、90歳を過ぎてから自由になれたと感じているそうで、
世間体や生きづらさからの卒業が卒寿なのかもしれない
今は楽しい。まだまだやりたいことがある
と、意欲を語っています。
「東海林のり子の夫との馴れ初めは?結婚後の夫婦仲は?夫の死去後は激ヤセしていた!」に続く
1980年代から1990年代にかけて事件リポーターとして最前線に立ち、昭和史に残る「女子高生コンクリート詰め殺人事件」「市川一家4人殺人事件」「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」などの凶悪な少年犯罪や、誰も行きたがらな …