伯父さんが森繁久彌さんと一緒にお芝居をしていた縁で、自宅の離れに森繁さんが下宿していたことがあったことから、幼い頃から映画に親しんでいたという、みのもんたさんですが、高校では演劇部に入部するも、大学進学後は、放送研究会に入ると、その後、徳光和夫さんに感化され、アナウンサーになったといいます。

「みのもんたの生い立ちは?幼少期は森繁久彌が自宅の離れに下宿していた!」からの続き

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大学時代は放送研究会でラジオドラマを制作していた

みのさんは、立教大学硬式野球部で活躍していた「立教三羽烏」長嶋茂雄さん、杉浦忠さん、本屋敷錦吾さん)へ憧れ、立教中学校(現・立教池袋中学校)に進学すると、中学卒業後は、立教高等学校(現・立教新座高等学校)、立教大学経済学部と、エスカレーター式で進学したそうです。


(左から)本屋敷錦吾さん、杉浦忠さん、長嶋茂雄さん。

ちなみに、高校時代には、演劇部に所属し、しかも、主将を務め、演劇の関東大会では見事優勝したそうですが、大学進学後は、演劇部ではなく放送研究会に所属し、ラジオドラマを制作していたそうです。

徳光和夫に感化されアナウンサーを志す

そんなある日のこと、みのさんは、同じ放送研究会出身で、みのさんよりも4年先輩の、徳光和夫さんがアナウンサーになったことを知り、放送研究会の仲間とともに日本テレビに徳光さんを訪ねたそうですが、

その際、徳光さんから、

これからはテレビの時代だ。アナウンサーは最高だぞ。君たちはそういう志をもってないのか?

と、言われ、共感すると、

(当時は、東京オリンピックの影響で、一般家庭にテレビが普及し始めていた時代でした)

スタジオ見学にも連れて行ってもらい、美空ひばりさんなど当時の大スターを間近で見て大いに感激したそうです。

200倍の難関を突破して文化放送に入社

そんなみのさんは、徳光さんがいる日本テレビを受験しようと思ったそうですが、あいにく、その年、日本テレビは新入社員を採用していなかったそうで、あえなく断念。

そして、奥さんの助言で、ラジオの文化放送の採用試験を受けると、なんと、200倍の倍率を勝ち抜いて合格したそうで、

(受験者600名のうち、合格者はみのさんを含め、たったの3人だったそうです)

みのさんは、大学卒業後の1967年、22歳の時、文化放送に入社したのでした。

(ちなみに、第一志望はTBS(東京放送)だったそうですが、採用試験で不合格となったそうで、その時、TBSに合格した久米宏さんを、長年ライバルとして意識していたそうです)

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「徹子の部屋」に徳光和夫と揃って出演

ちなみに、みのさんは、2021年、トーク番組「徹子の部屋」(12月23日放送)に、徳光和夫さんと出演した際、

徳光さんが、立教大学を卒業し、日本テレビに入社した後も、みのさんら放送研究会の後輩20名を湘南の自宅に呼んで合宿を行うなど、面倒見が良かったことを明かしているのですが、

(合宿では、発声練習やアナウンスの練習を行っていたそうです)

20人の若者の面倒を1週間もみれるなんて、日本テレビは給料がいいんだろなと思った

と、語っています。

「みのもんたが若い頃は「セイ!ヤング」で人気も降板させられていた!」に続く


「徹子の部屋」より。徳光和夫さんとみのさん。

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