大学卒業後の1967年、ひょんなことから「TBS」にアナウンサーとして就職されると、その後、体調不良を繰り返しながらも、1975年には、クイズ番組「ぴったし カン・カン」の司会で、一躍ブレイクされた、久米宏(くめ ひろし)さん。すると、その活躍ぶりが黒柳徹子さんの目に留まります。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

久米さんは、1944年7月14日生まれ、
埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)のご出身、

身長178センチ、

血液型はA型、

学歴は、
品川区立城南第二小学校
⇒武蔵工業大学付属中学校(現・東京都市大学付属中学校)
⇒東京都立大学附属高等学校
⇒早稲田大学政治経済学部卒業

ちなみに、久米宏は本名で、
愛称は久米ちゃんです。

若い頃はあがり症だった

久米さんは、大学生の時、英語が得意だったことから、将来は外国人観光客を案内する事業をやろうと思っていたものの、お母さんが、就職活動をしない久米さんを心配したため、大学4年生の時、お母さんを安心させようと、形だけの就職活動を始めます。

それで、その時、たまたまアナウンサーを募集していた「ニッポン放送」「TBS」を受けたところ、なんと、「TBS」に合格。(ニッポン放送は最終面接に遅刻してしまい不合格だったそうです)

こうして、偶然のなりゆきで、大学卒業後の1967年には、アナウンサー12期生として「TBS」に入社されるのですが・・・

入社して少し経つと、アナウンスブースに入ってしゃべろうとすると、恐怖心で全身から汗が吹き出すようになり、それでも我慢していると、ついには、ご飯まで喉を通らなくなり、栄養失調で「結核」に。

(極度の「あがり症」に加え、激務による疲労が重なったことが原因だったそうです)

結果、会社からは、無理をさせられないと、会社の電話番をさせられることになってしまったのでした。

そして、この頃、久米さんは、同僚のアナウンサーの番組を毎日聞いて、リポートを提出しなければならなかったのですが、それを真剣に聞いているうちに、

それまで、アナウンサーというのはトチらず、立て板に水のごとく話すものとされていました。でも、人間は詰まることも、考え込むこともある。そういう人間らしい話し方をしたいと考えるようになりました。

と、自分なりの話し方を見つけなくては、と思うようになっていったのでした。

クイズ番組「ぴったし カン・カン」の司会で一躍人気司会者に

その後、久米さんは、1970年4月には、ラジオ番組「パックインミュージック」の金曜パーソナリティに起用されるのですが、またもや病気のため5週で降板。

しかし、翌5月、永六輔の土曜ワイドラジオTokyo」内のコーナー「なんでも中継」を担当されると、シンクロナイズドスイミングをしながら中継したり、山手線の一両を借り切って中継しながら一周したりと、自由に話せるこの番組がとても楽しく感じられたそうで、水を得た魚のように躍動。

ただ、その後は、何度かテレビ番組の司会をされるも、「番組つぶしの久米」と呼ばれるほどの体たらく・・・

しかし、1975年10月、「コント55号」萩本欽一さんから誘われて、視聴者参加型のクイズ番組「ぴったし カン・カン」の司会を担当されると、軽妙洒脱な司会ぶりで、たちまち全国的な人気者に。


「ぴったし カン・カン」より。(左から)藤村俊二さん、相本久美子さん、湯原昌幸さん、坂上二郎さん、久米さん、萩本欽一さん、倉石功さん、大橋恵里子さん。

実は、久米さんは、この番組で、

アナウンサーというのは、カメラが向けられている間は話し続けなくちゃいけないという習性があります。ところが、共演した「コント55号」の坂上二郎さんは、何も喋らず、ただ黙って映っているだけでも面白い。これはアナウンサーにない感覚でした。

と、「テレビは映っているだけでいい」ことを気づかれたのでした。

黒柳徹子と「ザ・ベストテン」

すると、今度は、この活躍を見ていた黒柳徹子さんから、生放送の歌番組の司会でコンビを組みたいと声がかかったそうで、1978年、音楽番組「ザ・ベストテン」で黒柳さんと司会を担当されると、

黒柳さんとの息の合った掛け合いで、マシンガントークが炸裂。今までの歌番組の枠を超えた司会ぶりで、番組は大ヒットし、久米さんも押しも押されぬ人気司会者となられたのでした。

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「ザ・ベストテン」の裏話

ところで、この「ザ・ベストテン」、久米さんによると、台本は曲の順番が書いてあるくらいで、リハーサルも適当。とにかく本番勝負だったそうですが、

なんと、番組が始まってわずか10分で、早くも時間が押していたそうで、1位の曲は絶対放送しなければいけないことから、久米さんは、遅れを取り戻そうと、必死だったとか。(10位からのカウントダウン形式の歌番組でした)

ところが、黒柳さんはというと、時間が押しているのが分かっているのに、番組をおもしろくしようと、わざとゆっくりしゃべり、全く時間を気にされていなかったというから、久米さんは、さあ、大変。

しゃべりたい黒柳さんの話をなんとか止めて、次にいくことが勝負だったため、現場は常に切迫していて、放送が終わると、100メートルを走り終わった時のように、体中が汗でびっしょりだったそうです。

(その切迫感が、視聴者にはテンポのいい番組だと人気だったのですが♪)

それでも、久米さんは、そんな異常な緊張から開放される気持ち良さから、毎回、放送終了時には、この番組をやっていて良かったと思われていたそうで、

久米さんは、後に、その時のことを、

(黒柳さんとのマシンガントークの後に歌が始めるスタイルは)そういう形は徐々にできていったものです。10位から発表していくんですが、8位のあたりまで、先のことを心配していないから、トークで遊んじゃうんですよ。

5位を過ぎたあたりで時間がないことに気づく。至上命令として、1位は絶対に放送しなくてはいけない。上位になればなるほど歌のセットにも凝るし、インタビューの仕掛けにも、ある程度時間が必要になってくる。その時間の余裕を、5位くらいで使い果たしているんです。

人間って学ばないもので、何回やってもそうなるんです(笑)。1位の歌まで18秒しかないとか、最後の記念撮影に最低5秒は必要だとかになって、黒柳さんを叩いたり抑え込んだりして黙らせる(笑)。時間との戦いで、どんどん早口になっていきました。

と、臨場感たっぷりに、明かされています。

ちなみに、黒柳さんの髪型を「玉ねぎ頭」と呼び始めたのは久米さんなのだそうです♪

「久米宏が横山やすしと?ベストテン降板理由はニュースステーション?」に続く

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