1980年代から1990年代にかけて事件リポーターとして最前線に立ち、昭和史に残る「女子高生コンクリート詰め殺人事件」「市川一家4人殺人事件」「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」などの凶悪な少年犯罪や、誰も行きたがらないような衝撃的な現場を数多くリポートし続けた、東海林のり子(しょうじ のりこ)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。

今回は、東海林のり子さんの、夫との馴れ初め、結婚後の関係(夫婦仲)についてご紹介します。

東海林のり子と家族

「【画像】東海林のり子の若い頃は?デビューから現在までの経歴を時系列まとめ!」からの続き

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東海林のり子の夫との馴れ初めは?

東海林のり子さんは、1961年、26歳の時、3歳年下の外資系企業のサラリーマンだった東海林誠さんと結婚しています。

東海林のり子さんは、大学時代、ESS(英語サークル)で活動していたそうですが、大学4年生の時、このサークルに入部してきた、3歳年下のご主人と知り合ったといいます。

ただ、すぐに、交際に発展したわけではなく、東海林のり子さんがラジオのアナウンサーになった時、ご主人が、「見学させてください」とニッポン放送までよく遊びに来て、帰りは車で送ってくれていたそうで、そんな中、ご主人からプロポーズされたのだそうです。

とはいえ、当時、東海林のり子さんは、あるディレクターに片思いしており、ご主人のことは、(年下だったこともあり)恋愛対象ではなかったそうで、返事に迷ったそうですが、最終的には、プロポーズを受け入れ、結婚に至ったのだそうです。

(今では、ご主人と結婚して良かったと思っているそうです)

東海林のり子は夫に連絡する手段として「時報」を使っていた

ちなみに、東海林のり子さんは、結婚後も仕事を続けていたそうですが、仕事が終わってもすぐに帰れない時は、今のように携帯電話がない時代だったため、ご主人に連絡することができなかったそうで、

そんな中、自身がアナウンスしていた「時報」を使うことを思いつき、

すぐに帰れる時は、

まもなく6時になります

と、続けて読み、

すぐに帰れない時は、

まもなく・・・6時になります

というふうに読み方を変え、公共の電波を電話代わりに使っていたそうです。

東海林のり子の夫は家事や育児に協力してくれていた

また、東海林のり子さんは、子供を出産してからも、仕事を続けていたそうですが、

ご主人から、一度だけ、

(仕事をやめて)子育てをきちんとやるか、続けるか、どっちかにしろ

と、言われたことがあったそうで、

1週間考える時間をもらい、仕事を続けることを決意して、その旨をご主人に伝えると、

ご主人は、

そうか。精一杯やれ、日本一のリポーターになれ

と、言ってくれたそうで、

東海林のり子さんが出張中の時には、ご主人が代わりに子供たちのお弁当を作ってくれるなど、家事や育児に積極的に協力し、サポートしてくれたのだそうです。

(東海林のり子さんは、本当にありがたいと思っているそうです)

東海林のり子の夫は40代から糖尿病を患いその後は病気がちだった

その後、ご主人が定年した後は、二人で買い物やドライブを楽しむなど穏やかな日々を送っていたそうですが、

実は、ご主人は、40代で糖尿病を患い、以来ずっと病気がちだったそうで、

(一番の原因はお酒だったそうで、企業の営業職だったため、飲む機会が多く、若い時に飲み過ぎてしまったのだそうです)

病院の先生の勧めにより、50代から禁酒したそうですが、長年にわたって肝臓を酷使したことで、ダメージがずっと残ってしまったのか、病気の総合デパートのようにあちこちが悪く、定年後は病院と縁が切れなかったそうです。

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東海林のり子は夫の死去後は激ヤセしていた

そんな中、2018年にはご主人が持病の腎臓病により他界されたそうですが、東海林のり子さんは落ち込み、そのせいで、すっかり痩せ、自宅に引きこもる日々が続いたそうです。

(翌年の2019年には愛猫の死、その直後にはコロナ禍と続いたそうです)

ただ、ある日のこと、友人から、

生まれた時に誕生日があるように、亡くなった日は、天国での誕生日なんですよ。考えてごらんなさい。誕生日はみんなで祝うでしょう。ご主人にはここから天国での素敵な人生が始まるかもしれないんだから、悲しがらないで

と、言われたそうで、

この言葉に救われて、気持ちが明るくなり、その後、落ちていた筋力もすっかり回復し、一時期使っていた杖も必要なくなったのだそうです。

「東海林のり子の子供は?息子は同じマンションの階下!娘とは友達親子!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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