失明していた左目のハンデを隠すため、サウスポースタイルに変更し、相手に打たせて打つ戦術で、見事、日本フライ級王者に輝くと、タイトルを2度防衛し、34勝(11KO)8敗1分という戦績を残した、たこ八郎(たこはちろう)さん。
今回は、そんなたこ八郎さんの若い頃(プロボクサー時代)の戦績をプロデビューから時系列でご紹介します。
「たこ八郎の生い立ちは?幼少期に左目を失明!高校でボクシングを始めるも断念していた!」からの続き
たこ八郎は19歳の時にボクシングのプロテストに合格
高校時代にはボクシング部に入部し、県大会では見事優勝するも、幼少期に失明した左目の影響で、プロになれるとは思えず、
一度はプロボクサーを断念し、高校卒業後は、もう一つの夢だった喜劇役者を目指して上京し、映画配給会社でフィルム運びの毎日を送っていた中、
2年が経過し、焦りを感じ始めていた頃、偶然、通りかかった「笹崎ボクシングジム」の「練習生募集!」の張り紙に、諦めかけたボクシング熱が再燃し、さっそく、笹崎ボクシングジムに入門したというたこ八郎さんは、
そこで、後に世界チャンピオンとなるファイティング原田こと原田政彦さんと出会い、原田政彦さんと共に腕を磨いたそうで、
19歳の時にプロテストを受けると、見事、合格したそうです。
(プロテスト時は、左目がほとんど見えないことを隠す為、事前に視力表を丸暗記していたそうです)
たこ八郎は19歳の時にプロボクサーデビュー
そして、たこ八郎さんは、1960年9月5日、19歳の時、後楽園ホールのリングで、吉田貞吉さん(興伸ジム)と戦うと、
同じフライ級の平凡なパンチにまったく動ぜず、相手が1発打つと3発返す戦法で、大差で4回判定勝ちする圧勝で、プロボクサーデビューを飾ったのでした。
たこ八郎は19~20歳の時にファイティング原田と東日本新人王戦で当たり会長に棄権させられていた
その後、たこ八郎さんは、めきめきと頭角を現し、東日本新人王戦に出場すると、準決勝まで勝ち進むのですが・・・
同年(1960年)秋、別のグループから勝ち上がってきた同じジムのファイティング原田さんと対戦することになったそうで、
当時のボクシング界では、身内(同じジム)同士の対決は、(禁止の規定はなかったものの)あってはならないことだったため、どちらかが引くしかなく、会長から棄権するよう言われたたこ八郎さんは、この命令を受け入れ、試合を辞退したのだそうです。
(たこ八郎さんは、試合に出たい気持ちはもちろんあったそうですが、ライバルで盟友のファイティング原田さんを殴ることはできないと思い、会長の命令を受け入れ、試合を辞退したのだそうです。ちなみに、ファイティング原田さんは準決勝と決勝を勝ち抜き、見事、東日本新人王に輝いています)
たこ八郎は22歳の時に日本フライ級王座に輝いていた
それでも、たこ八郎さんは、その後も、まるで、ファイティング原田さんの件はなかったかのように戦い続けたそうで、
左目が見えないハンデを相手に悟られないようにするため、相手のパンチをかわさず(ノーガードで)打たれ続け、どれだけ打たれても絶対に倒れず、
相手の耳元に、
効いてない、効いてない
と、ささやき続け、
相手が打ち疲れて戦意を喪失した後に反撃して打つ、という戦術で、1960年9月5日のデビューから、34戦24勝(10KO)4敗1分の戦績を積み上げると、
(その独特のヘアスタイルから「河童の清作」と呼ばれて人気を博したそうです)
1962年12月28日、22歳の時、日本フライ級王座に挑戦すると、大方「不利」の予想を見事に覆し、日本フライ級王者の野口恭さんとの壮絶な打撃戦を制して、10回判定勝ちを収め、見事、日本フライ級王座に輝いたのでした。
(たこ八郎さんの打たせて打つ戦術は、ケガが多く、35戦目にして、ようやく、日本フライ級王座初挑戦となったそうです)
ちなみに、たこ八郎さんの、両手をだらりと下げて相手を誘う戦術は、ボクシング漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈の「両手ぶらり戦法」のモデルになったと言われています。
たこ八郎は22歳の時に挑戦者決定戦でチャチャイ・ラエムファバーにキャリア初の8回TKO負けを喫し世界挑戦の夢が絶たれていた
そんなたこ八郎さんは、1963年2月19日、22歳の時には、日本フライ級王座を保持したまま、ノンタイトル10回戦(これに勝てば世界挑戦が確定となる試合)で、後に世界フライ級王者となるチャチャイ・ラエムファバーさん(タイ)と戦うのですが・・・
キャリア初の8回TKO負けを喫し、世界挑戦の夢は絶たれてしまいます。
たこ八郎は23歳の時に日本王座3度目の防衛戦で敗れ現役を引退していた
それでも、1963年4月14日には、ビリー・ブラウンさん(フィリピン)とのノンタイトル10回戦で判定勝ちし、
同年5月17日、前日本王者・野口恭さんとの再戦では、5回TKO勝ちの返り討ちで日本フライ級王座の初防衛に成功。
また、同年11月14日、堤五郎さん(興伸)との日本王座2度目の防衛戦も10回判定勝ちしています。
ただ、1964年4月2日(たこ八郎さん23歳)、飯田健一さん(三鷹)との日本王座3度目の防衛戦では、壮絶な打撃戦の末、10回判定負けで敗れて、王座から陥落し、
たこ八郎さんは、この試合を最後に、体力の限界を悟り、現役を引退したのでした。
(たこ八郎さんの通算戦績は34勝(11KO)8敗1分でした)
「【画像】たこ八郎の若い頃(コメディアン・俳優時代)は?主な出演作品は?」に続く
1964年、23歳でボクシングの現役を引退した後は、コメディアンに転身し、たどたどしく呂律の回らないトークや予測不能な笑いでお茶の間の人気を博し、俳優としても活躍した、たこ八郎(たこ はちろう)さん。 今回は、そんなたこ …