1972年、フォークグループ「アリス」のドラマーとしてデビューすると、その後、多数の編曲に携わってきた、矢沢透(やざわ とおる)さん。

そんな矢沢透さんは、13歳の時に、教えることが好きな4歳年上のお兄さんにスネアドラムを無理やり教わると、最初は嫌々だったそうですが、やがて、スネアドラムが好きになり、夢中になって練習したそうで、

やがては、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが演奏した映画「危険な関係」のテーマ曲「危険な関係のブルース」を聴いて衝撃を受け、「プロのドラマーになる」と決意したといいます。

今回は、矢沢透さんの生い立ち(高校を中退してバンドボーイをするまで)をご紹介します。

矢沢透

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矢沢透のプロフィール

矢沢透さんは、1949年2月6日生まれ、
神奈川県横須賀市の出身、

学歴は、
横浜市立間門小学校
⇒静岡清水市立立岡小学校(転校)
⇒清水市立第二直中学校
⇒高校中退

趣味は、スポーツ観戦、ゴルフ、料理、

ちなみに、「矢沢透」は本名で、愛称は、落語家の柳家金語楼さんに似ていたことから、「キンちゃん」と呼ばれているそうです。

矢沢透は13歳の時に兄から嫌々スネアドラムを教わっていた

矢沢透さんは、1962年、13歳の時、4歳年上で高校のブラスバンド部でスネアドラムをやっていたお兄さんに、スネアドラムを教えてもらったそうですが、

お兄さんは何でも教えたがる人だったそうで、その頃の矢沢透さんは、野球がやりたくて外に遊びに行きたかったことから、最初は嫌々やり始めたそうです。

矢沢透は中学時代にアート・ブレイキーを聴いてプロのドラマーになろうと決意していた

ただ、そんな矢沢透さんも、やがては、スネアドラムが好きになっていき、そのうち、学校を休んでまでスネアドラムの練習するようになったそうです。

とはいえ、その頃は、クラシックや行進曲の指揮者をやりたいと思っていたそうですが、お兄さんがジャズのレコードを買ってくるようになり、

ある時、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが演奏した、映画「危険な関係」のテーマ曲「危険な関係のブルース」を聴くと、

その瞬間、アート・ブレイキーのドラムのスイング感や音に痺(しび)れたそうで、

プロのドラマーになる

と、決意したのだそうです。

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矢沢透は17歳の時に「中野彰とそのグループ」にバンドボーイとして加入していた

そんな矢沢透さんは、高校時代は、ドラムの練習に明け暮れる毎日を送っていたそうですが、

高校1年生の1月7日、トランペットをやっていた中学3年生の友達が、専門誌「スイングジャーナル」で、ジャズトランペット奏者・中野彰さんがバンドボーイを募集しているのを見つけ、

一緒についてきてくれないか

と、頼んできたそうで、

一緒に、東京のヒルトンホテルまでついて行ったそうです。

すると、中野彰さんには、

明日から来てくれ

と、言われたそうですが、

まだ中学生だった友達は、中学を卒業してからでないと行くことができなかったのだそうです。

ただ、中野彰さんには、

ちょうどドラムが欲しかった

と、言われたそうで、

矢沢透さんは、すぐ自宅に戻って、お母さんに高校の退学届を出してもらい、すぐに上京すると、1966年、17歳の時、「中野彰とそのグループ」のバンドボーイになったのだそうです。

ちなみに、矢沢透さんは、本土返還前に、沖縄の米軍キャンプ回りをしていたこともあったそうで、

17歳くらいの頃にはもう米軍キャンプ回りをしていました。当時、R&Bを叩ける人はほとんどいなかったので、重宝されました。

30分ステージを3回と1時間ステージを1回がワンセット。それを一晩に2~3カ所やって、その後、新曲のリハーサルをしたり、ディスコのバンドに教えて欲しいと言われたら行って教えたりして、明け方にやっと解散。それでまた朝の9時に起こされる、というような日々でしたね

と、語っています。

「【画像】矢沢透の若い頃は?アリスのほかオフコースにも誘われていた!現在は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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