1966年、「中野彰とそのグループ」のバンドボーイとしてドラマーデビューすると、その後、ジャズ喫茶でアルバイト、バックバンドでの活動を経て、1972年には、谷村新司さん、堀内孝雄さんと共に「アリス」を結成した、矢沢透(やざわ とおる)さんですが、実は、「オフコース」にも誘われていたといいます。

今回は、そんな矢沢透さんの、若い頃(アリス時代)から現在までの経歴をデビューから時系列でまとめてみました。

アリス時代の堀内孝雄と谷村新司と矢沢透

「矢沢透の生い立ちは?高校を中退してバンドボーイ!沖縄米軍キャンプ回りも!」からの続き

Sponsored Link

矢沢透が18歳の時はザ・ピーナッツや布施明らのバックバンドを務めていた

1966年、17歳の時、「中野彰とそのグループ」にバンドボーイとして加入すると、沖縄の米軍キャンプ回りをするなど、ジャズドラマーとしての活動を始めた矢沢透さんは、

1968年、18歳の時には、渡辺プロに所属し、ザ・ピーナッツや布施明さんらのバックバンドを務めたそうです。

矢沢透は21歳の時に谷村新司と出会い意気投合していた

そんな矢沢透さんは、1970年、21歳の時には、東京のソウルバンド「ブラウン・ライス」のゲスト・ドラマーとして、アメリカ横断コンサートツアーに参加したそうですが、

その途中で、大阪のセミフォークグループ「ロック・キャンディーズ」のリーダーだった谷村新司さんと知り合うと、意気投合したそうで、帰国したらプロとして一緒にフォークグループを組んで活動しようと約束したそうです。

矢沢透は23歳の時に谷村新司と意気投合して「アリス」に加入

その後、谷村新司さんは、同じ神戸の音楽サークル「ポート・ジュビリー」で知り合った、アマチュアロックバンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」のボーカルで、京都産業大学出身の堀内孝雄さんを誘ったそうで、

1971年12月25日、大阪市南区南炭屋町(現・中央区西心斎橋二丁目)にあるビジネスホテル・大阪帝国ホテルの一室で、矢沢透さんが合流することを前提に「アリス」を結成すると、1972年3月5日には、ファーストシングル「走っておいで恋人よ」でデビューし、

同年5月5日に開催された奈良市民会館での公演から、矢沢透さんも「アリス」に合流したのでした。

アリス時代の堀内孝雄と谷村新司と矢沢透
(左から)堀内孝雄さん、谷村新司さん、矢沢透さん。

矢沢透は「オフコース」にも誘われていた

ちなみに、矢沢透さんは、アメリカ横断ツアーに出る前には、杉田二郎さんのバンド「ジローズ」のライブにドラマーとして参加していたことがあったそうですが、

この「ジローズ」で前座を務めていた「オフコース」の小田和正さん、鈴木康博さんと仲良くなり、

「オフコース」のファーストアルバム「僕の贈りもの」や3枚目のアルバム「ワインの匂い」のドラムを担当しており、「オフコース」からも誘われていたそうで、

オフコースと同時にアリスの話も来たんです。谷村さんが『サンタナみたいなバンドをやりたい』というので、喜んで行ったら、デビュー曲がアコースティックギターでつまびくようなイントロから始まる『走っておいで恋人よ』(笑)。

これ、サンタナじゃなくてベッツィ&クリスじゃないって……。でも『愛の光』という曲を叩いたとき、ここでしかぼくが生きる道はない、と思ったの

と、語っています。

created by Rinker
ユニバーサル ミュージック (e)

矢沢透が20代前半の時には「アリス」は売れず、地方回りに明け暮れる毎日を送っていた

ただ、なかなか、「アリス」はヒット曲に恵まれず、低迷が続いたそうで、

矢沢透さんは、ドラムの代わりに持ち運びが可能なコンガを持って、メンバーとマネージャーだけで全国各地を回る、地道なツアー活動に明け暮れる毎日を送ったそうです。

(1974年は、年間303ステージもこなしたそうです)

矢沢透が26歳の時に「アリス」は「ウッディ・ウー」のカバー曲「今はもうだれも」が初ヒット

それでも、やがて、「アリス」は、地道なツアー活動の成果が実り、潜在的なファンを増やしていくと、

1975年9月5日にリリースした、関西カレッジフォーク界で有名だった立命館大学と同志社大学のOB3人組「ウッディ・ウー」の「今はもうだれも」のカバー曲が、累計売上28.8万枚を記録するヒットとなり、「アリス」として、初めてオリコンシングルチャート週間20位以内(最高11位)にランクインします。

矢沢透が26歳~30歳の時には「アリス」は「冬の稲妻」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」などが大ヒット

すると、「アリス」は、「今はもうだれも」のヒットをきっかけに、

以降、

  • 1976年4月5日には、「帰らざる日々」
  • 1976年9月20日には、「冬の稲妻」
  • 1978年3月5日には、「涙の誓い」
  • 1978年6月20日には、「ジョニーの子守唄」
  • 1978年12月5日には、「チャンピオン」
  • 1979年12月20日には、「秋止符」
  • 1980年7月5日には、「狂った果実」

など、次々とヒット曲を連発したのでした。

created by Rinker
ユニバーサルミュージック合同会社

矢沢透は32歳の時にバンド「BLEND」を結成するも鳴かず飛ばずで約1年で解散していた

ただ、そんな「アリス」も1981年には活動休止を発表。

それに伴い、矢沢透さんは、バンド「BLEND」を結成し、英語で歌を歌っていたそうですが・・・

鳴かず飛ばずで約1年で解散したそうです。

矢沢透は35歳の時に串焼き店「阿雅左~AGATHA~」、ヴィンテージ・ギターショップ「Rim-shot」をオープンしていた

その後、矢沢透さんは、アイドル歌手の早見優さんやシブがき隊の曲を作るなど、作曲家として活動をするほか、

1984年、35歳の時には、串焼き店「阿雅左~AGATHA~」をオープンすると同時に、知人と共同でヴィンテージ・ギターショップ「Rim-shot」をオープンするなど、実業家としても活動しており、

矢沢透さんは、2022年、インタビューで、

(ギターショップは)僕と友人と一緒にやっているビンテージギターの店です。ゆずの2人とか、いきものがかりもお客さんです。置いているのはマーチンとかギブソンのビンテージですから、好きな人は探して来てくれますね

と、語っています。

また、実業家への道に進んだ理由について、

僕が知っている昔のミュージシャンは収入が不安定。音楽の世界はうたかたの世界だから。音楽がだめになっても生きていけるものがないとまずいんじゃないかなと昔から思っていました。

自分が料理やギターが好きだということに加えて、潜在的にそういう危うさを感じていて、できるならやろうと思っていました

と、語っています。

(現在は、お店のレシピも矢沢透さん自身が考えているのだそうです)

Sponsored Link

矢沢透の現在(70代)はラジオ番組「アリス矢沢透の飲食応援団!」のメインMCとして活動

そんな矢沢透さんは、2つのお店を経営するほかにも、現在は、渋谷クロスFM「アリス矢沢透の飲食応援団!」(第1、第3、第5木曜の午後7時)のメインMCとしても活動しています。

また、現在は、健康のため、ジムに通い、食べ物は添加物に気をつけ、物事を愉快に考えるようにしているほか、

人とはとりあえず楽しく話し、合わない人とは表立っては避けたりせずに、なんとなく話さないようにするなど、食べ物でも人でも、あらゆることにおいて、ストレスを感じない、自分にいい物を吸収するように心がけているそうです。

「矢沢透の元妻との離婚理由は?現在の妻とは別居?子供は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link