1980年代、漫才コンビ「B&B」として大ブレイクし、漫才ブームを牽引すると、1987年に自費出版した「佐賀のがばいばあちゃん」も、2007年4月までに400万部を売り上げ、ベストセラー作家としての地位も確立した、島田洋七(しまだ ようしち)さん。
そんな島田洋七さんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、島田洋七さんの、妻との馴れ初め、結婚後の関係(夫婦仲)、子供についてご紹介します。
「島田洋七とビートたけしはフライデー襲撃事件で親友になっていた!7年も同居?」からの続き
島田洋七の妻・律子との馴れ初めは?
島田洋七さんは、1970年、19歳頃、デパートに勤めていた律子さんと結婚したそうですが、
島田洋七さんは、故郷である広島の大学を中退し、祖母の住む佐賀を訪れていた時、たまたま入った喫茶店で、律子さんと知り合ったそうですが、いきなり、意気投合したそうで、たちまち、結婚を意識したのだそうです。
島田洋七は妻・律子との結婚を周囲から猛反対されていた
とはいえ、その頃、島田洋七さんは、定職につかず、八百屋でアルバイトをしていたうで、律子さんの実家に挨拶に行っても、お父さんは会ってくれず、
島田洋七さん自身の親や親戚からも、
ちゃんとした仕事についてからでないとダメだ
と、言われるなど、
律子さんとの結婚を、猛反対をされたそうです。
ただ、そんな中、唯一、佐賀のおばあちゃんだけは、
おりたい人とおるのが一番いいんじゃないの
と、言ってくれたそうです。
(島田洋七さんは、2歳でお父さんを亡くし、小学1年生(6歳)から中学卒業までの8年間、この佐賀のおばあちゃんの所に預けられたそうですが、この時の体験を綴った著書「佐賀のがばいばあちゃん」は、後にベストセラーとなり、映画化・ドラマ化もされました)
島田洋七は妻・律子と駆け落ち同然で上京していた
そんな島田洋七さんは、律子さんと出会って半年後、歌手を目指し、律子さんと駆け落ち同然で上京したそうですが、
(どうしたら芸能界に入れるか分からず、雑誌の俳優座の「研究生募集」の広告を見て、「募集」というなら、人手不足に違いないと思い、俳優座に入るために上京したそうですが、後に、俳優座では歌手になれないと分かったのだそうです)
やがて、律子さんの貯金が尽きたことから、今度は、先輩のツテを辿って、大阪へ行くと、
先輩の奥さんから、
大阪は漫才と新喜劇が名物だから見に行ったら?
と、言われたそうで、
なんば花月に吉本新喜劇を観に行くと、このことがきっかけで漫才師になりたいと思うようになったのだそうです。
島田洋七は漫才師として成功した後、妻・律子の父親に結婚を許されていた
そんな島田洋七さんは、ツテを頼って吉本興業に入ったそうですが、新婚生活は、4畳半のアパートからのスタートだったそうで、律子さんも大阪に着いてすぐに働き始め、家計を支えてくれたそうですが、下積み時代の生活は苦しかったそうです。
そんな中、律子さんと大阪で迎えた最初の冬、4畳半のアパートに律子さんの実家から布団が届いたそうで、
そこには、
ふたりで頑張れよ
という、義父(律子さんのお父さん)からのメッセージが添えられていたそうで、
島田洋七さんは、
ぼくは知らんかったけど、嫁はちょくちょく公衆電話で実家の親と話していたみたいです。あれだけ反対していたお義父さんが心配してくれたことがうれしゅうて。
でもまだそのときは完全に許してもらえたわけではなかったから、布団を励みにしてとにかく漫才に取り組んだ。そしたら2年後にNHKの漫才コンテストで最優秀話術賞を受賞できた。
普通、漫才なんて九州のテレビには映らんけど、NHKは全国で映るやん。優勝したシーンをお義父さんが見て、嫁に『ここまで頑張ったなら、結婚を許してもええやん』と言わはった。
そこから3年くらい経った頃にぼくらが東京に進出して、西城秀樹さんや野口五郎さんが出る人気歌番組でコントをするようになったとき、お義父さんから『頑張っとるな』と手紙が来て、そこでようやく和解できたと思いましたね
と、語っています。
島田洋七は妻・律子とともに佐賀に移住していた
その後、漫才ブームが去ると、島田洋七さんは仕事がなくなり、7年ほど、ビートたけしさんの家に居候し、たけし軍団にご飯を作っていた時期もあったそうですが、
1987年、「佐賀のがばいばあちゃん」を自費出版し、講演会で全国を飛び回るようになると、
そんな中、佐賀で暮らしていた律子さんのお母さんが病気で倒れ、律子さんは、介護のため、当時、住んでいた埼玉と佐賀を往復するようになり、月の半分は佐賀というハードな生活となったことから、
島田洋七さんは、
これはもう、俺が帰ればええな
と、律子さんに内緒で移住を決めたそうで、
佐賀に300坪の土地を買って平屋の日本家屋を建築すると、家には、かまど、囲炉裏、土間なども作り、2001年、51歳の時に、移住したのだそうです。
(島田洋七さんには、もともと、佐賀に帰りたいという思いはあったそうです)
島田洋七と妻・律子の夫婦仲は良好
ちなみに、移住後は、来客があると、かまどでご飯を炊いたり、囲炉裏で火を起こして、もてなすほか、
畑で野菜を育てたり、白菜やきゅうりの漬物を作ったり、製材所でもらってきた丸太をチェーンソーでカットし、薪ストーブ用の薪として軒下にストックするなど、不便な生活を遊び場という感覚で楽しんでいるそうで、
島田洋七さんは、佐賀での律子さんとの暮らしについて、
〝私洗濯してるから買い物に行ってきて〞と言われたらすぐ行くよ。あちこち行ったほうが、歩数も稼げるやん(笑)。
ケンカ? せんよ、そんなもん。俺はほら芸人やから、なに言うてもギャグに聞こえてアホらしくなるんちゃう? 芸人の浮気がニュースになると〝お父さんもやってるの?〞と聞くから、〝やってるよ~〞って
〝ああ嫁さん、こんなことが上手なんや〞と知ったり、昔のことを話したり。このご時世(コロナ禍)で一緒に旅行ができないのは残念やけど、それはそれなりにね。友達が来んでも、2人でかまどでご飯を炊いてみたりして
と、語っており、
夫婦2人で楽しんでいることが分かります。
佐賀の自宅のリビングでくつろぐ、島田洋七さんと妻の律子さん。
島田洋七の子供は娘と息子が1人ずつ
そんな島田洋七さんと律子さんの間には、子供が2人(男の子と女の子が1人ずつ)いるそうで、1974年に誕生した娘さんは尚美さんというそうです。
また、1977年12月6日に誕生した息子さんは、憲明さんといい、2003年頃に吉本興業の芸人として活動していたそうですが、現在は、島田洋七さんの個人事務所「島田オフィス」の代表取締役を務めているそうです。
ちなみに、島田洋七さんは、子育てについて、
(子育てでこだわったことは)あんまりないけど、よその子どもと比べたらあかん、というのはありますね。
「田中さんの子どもはこんなで……」と言ったら、子どもはカチンと来る。みんなが一等賞を取るのは無理だから、いいところを伸ばしてやらないと。
親だってエラそうなこと言えないじゃないですか。僕は学校であまり勉強できなかったから、子どもにも「勉強せい」とは言わん。「勉強した方が役に立つよ」とは言うけど。勉強したくない子に毎日毎日「勉強せい」と言ったら負担ですよ。
勉強嫌いな子もおるて。勉強=人生とちゃうからね。それよりは、「何になりたいの?」のほうがおもしろいと思うよ。野球選手とか、夢があっていいじゃないですか
と、語っており、
理解のある優しいお父さんであることが分かります。
1980年代、「B&B」として漫才ブームを牽引すると、2004年には、著書「佐賀のがばいばあちゃん」がベストセラーとなり、一躍、人気作家として脚光を浴びた、島田洋七(しまだ ようしち)さん。 そんな島田洋七さん …