1972年、22歳の時、「B&B」として「島田洋一」名義で漫才師デビューすると、その”マシンガン漫才”でたちまち脚光を浴びた、島田洋七(しまだ ようしち)さんですが、

1973年には、相方・団順一さんが脱退する形で初代「B&B」が解散となり、その後、上方よしおさんと結成した二代目「B&B」も、そのスピード感あふれる漫才が関係者の間で高く評価され、1975年にはレギュラー番組を持つまでになるのですが、またしても、「B&B」を解散してしまうことになったといいます。

今回は、島田洋七さんの下積時代(初代「B&B」~二代目「B&B」)の経歴をデビューから時系列でご紹介します。

島田洋七

「島田洋七の生い立ちは?野球特待生で広陵高校入りもケガで挫折していた!」からの続き

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島田洋七は22歳の時に団順一と「B&B」(初代)を結成し漫才師としてデビューしていた

1971年5月、夫婦漫才コンビ「島田洋之介・今喜多代」への弟子入りを果たした島田洋七さんは、弟子入り直後には、兄弟子の島田一の介さんとコンビを組んだ事もあったそうですが、お互いに、訛(なま)りが強かったことから程なくして解散したそうで、

弟子入りしてから1年2ヶ月後の1972年、22歳の時、桂三枝(現・六代目桂文枝)さんの紹介で、団順一(現在の放送作家・萩原芳樹)さんと初代「B&B」を結成すると、「島田洋一」名義で漫才師としてデビューを果たします。

そして、名古屋・大須演芸場で初舞台を踏み(お客さんはたった5人だったそうです)、その後、大阪で舞台を中心に活動するようになると、やがては、島田洋七さんの「マシンガン漫才」がウケて注目されるようになり、

初舞台から11ヶ月後には、最優秀話術賞を受賞するほか、当時の芸能雑誌にも、有望株として、東京の「マックボンボン」(志村けんさんといやま淳さんのコントコンビ)と共に紹介されたのでした。

島田洋七は23歳の時に「B&B」(初代)を解散していた

こうして、島田洋七さんは、「B&B」として、活動が軌道に乗り始めたのですが・・・

その矢先、相方の団順一さんが、突如、失踪し、脱退という形で「B&B」は解散となってしまいます。

(団順一さんは、その頃、「トップホットシアター」に出演していた「はな寛太・いま寛大」の舞台を見て自信を喪失したと言われています)

島田洋七は23歳の時に上方真一(後の上方よしお)と二代目「B&B」を結成していた

そんな中、島田洋七さんが相方を募集すると、1973年5月には、申込みのあった上方真一(後の上方よしお)さんと二代目「B&B」を結成し、そのスピード感あふれる漫才が、関係者の間でたちまち高い評価を得て、数々の賞を受賞。

ちなみに、「ザ・ぼんち」の里見まさとさんは、1974年、「NHK上方漫才コンテスト」に出場した際、「B&B」の漫才を客席で観たそうですが、

『もうええよ!』と言うくらいの大爆笑に次ぐ大爆笑で圧倒された。『負けた..』と正直にそう感じた

と、語っています。

また、この頃、島田紳助さん(当時18歳)も、テレビで島田洋七さんを観て衝撃を受け、

島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう

と、吉本興業に入所し、「B&B」の漫才を徹底的に研究したと言われています。

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島田洋七は24歳の時に二代目「B&B」も解散することになっていた

こうして、二代目「B&B」の活動はすぐに軌道に乗り、1975年1月には、バラエティ番組「オールスター90分」で悲願のレギュラー番組も獲得するまでになったのですが・・・

その矢先、またしても、「B&B」は、コンビを解消することになってしまったそうで、

島田洋七さんは、その理由について、

よしおは『東京には吉本ないやろ』って。でも、僕は東京で勝負したかったんですよ。大阪のテレビ番組に出ても、佐賀では映ってないからね。やっぱり、ばあちゃんに見てもらいたかったし・・・

と、語っており、

東京に進出したい島田洋七さんと、東京での活動に尻込みした上方よしおさんとの間に温度差が生じたことが原因だったといいます。

(島田洋七さんが上方よしおさんに楽器を持てと強要して大ゲンカになったという話も)

ちなみに、この時、島田洋七さんは、少年時代に母親に会えなかった寂しさと、人生の全てをかけていた野球で挫折したことに加え、またしても、今、漫才で挫折したことで、失意のどん底にいるように感じたといいます。

「【画像】島田洋七の若い頃はB&Bで漫才ブーム!書籍がばいばあちゃんもベストセラー!」に続く

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