1975年9月、「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビューすると、1977年9月、5枚目のシングル「わかれうた」がミリオンセラーとなる大ヒットを記録し、以降、「時代」「糸」「悪女」「地上の星」など次々とヒットを連発した、中島みゆき(なかじま みゆき)さん。
そんな中島みゆきさんは、幼少期から高校時代まで、お父さんの仕事の都合で転居を繰り返していたことから、なかなか周囲に馴染めず、引っ込み思案な少女だったそうですが、
高校進学のお祝いに、両親にギターをプレゼントされると、独学でギターを学び、作詞作曲を始めたそうで、高校3年生の時には、引っ込み思案な自分の性格を変えたいと、自ら志願して文化祭のスタージに立ち、オリジナル曲「鶫の唄」を歌ったといいます。
今回は、中島みゆきさんの、幼少期(生い立ち)から、高3で文化祭ステージデビューし、25歳の時に「わかれうた」がミリオンセラーとなるまでをご紹介します。
中島みゆきのプロフィール
中島みゆきさんは、1952年2月23日生まれ、
北海道札幌市の出身、
身長161センチ、
血液型はB型、
本名は、「中島美雪」(読み方同じ)、
学歴は、
北海道岩内町立岩内西小学校
⇒北海道帯広市立帯広小学校(転校)
⇒北海道帯広市立帯広第三中学校
⇒山形県山形市立第六中学校(転校)
⇒北海道帯広市立帯広第三中学校(転校)
⇒北海道帯広柏葉高等学校
⇒藤女子大学文学部国文学科
趣味は、寝ることと消しゴム集めだそうです。
ちなみに、おじいさんは、帯広市議会議長を務めた中島武市さんで、初代大蔵次官である郷純造男爵の甥だそうです。
中島みゆきは幼い頃は厳格な父親に厳しくしつけられていた
中島みゆきさんは、札幌医科大学の産婦人科医として勤務するお父さんの中島眞一郎さんと山形の名家の出身であるお母さんの中島典子さんのもと、2人姉弟の長女として北海道札幌市に誕生すると、
幼い頃は、厳格なお父さんに厳しくしつけられたそうで、両親のことを、
お父さま、お母さま
と、呼んでいたそうです。
中島みゆきは5歳からバレエとピアノを習っていた
そんな中島みゆきさんは、1957年、5歳の時、お父さんの転勤に伴い、北海道・岩内に転居したそうですが、転居先の幼稚園では、うまく周りと馴染めなかったそうで、
それを見かねたお母さんが、バレエとピアノを習わせたそうですが、ピアノは、受験勉強に専念するため、中学3年生になる前にやめてしまったそうです。
(ピアノ教室までの道のりは往復2時間もかかったそうで、雪が積もった日には、往復だけで5時間かかったそうです)
中島みゆきは幼稚園の頃から作詞を始めていた
また、中島みゆきさんは、幼い頃から、筆箱に張ったゴム紐をはじいて、その音を面白がるなど、音楽に対して繊細な感性があったそうですが、それは、音楽が好きな両親の影響によるものだったそうで、
両親は、絶えず、ラジオやレコードなどで、クラシック、歌謡曲、童謡など、あらゆるジャンルの音楽を流していたのだそうです。
そんな中、中島みゆきさんは、流れてくる音楽をマネして口ずさむようになったそうで、幼稚園の頃には、マネをして歌うだけでは物足りなくなり、作詞も始めたといいます。
中島みゆきは幼い頃は何をしても遅い子供だった
その一方で、中島みゆきさんは、幼い頃は、おっとりしていて、何をしても遅い子供だったそうで、
急がないとみんなが先に行ってしまう、止まっていたらみんなどこかへ行ってしまうという強迫観念があったといいます。
中島みゆきは小学~中学時代は転居を繰り返し周囲と馴染めなかった
中島みゆきさんは、1963年、11歳の時、おじいさんが住む帯広でお父さんが産婦人科医院を開業したことから、家族と共に帯広に移り住んだそうですが、
1966年、14歳の夏には、お母さんが体調不良で実家で一時療養するのに伴い、山形県山形市に移り住むと、高校受験のために、4ヶ月で帯広に戻り、1967年には、地元の進学校である帯広柏葉高校に進学したそうです。
ちなみに、中島みゆきさんは、転校が多かったことから、なかなか新しい土地に馴染めず、一人で過ごすことが多かったそうで、
学校では転校生ということもあって、人は嫌いじゃないのに、どのグループにも入らないで、何となく1人でいることの方が多かったみたい。それでいて、人がいないと淋しくて、とにかく人のいる所にいて、ボーっとしてたりしたみたい
と、語っています。
中島みゆきは高校進学後にギターを独学で学び始めるも学校では周囲にうまく溶け込むことができなかった
そんな中、中島みゆきさんは、高校進学のお祝いに、両親からギターをプレゼントされたそうで、これをきっかけに、独学でギターを学び始め、やがては、作詞作曲も始めたそうです。
ただ、やはり、高校時代も、周囲にはうまく溶け込むことができず、授業中には、鬱々(うつうつ)と詩を書く毎日だったそうです。
(自分は必要のない人間ではないだろうかと考え、精神的に煮詰まっていたそうです)
中島みゆきは高校3年生の時に引っ込み思案な自分の性格を変えたいと文化祭のステージで自作曲「鶫の唄」を歌っていた
そこで、中島みゆきさんは、1969年、高校3年生の時、一念発起し、引っ込み思案な自分の性格を変えたいと、思い切って、文化祭のステージに立つことを志願したそうで、
1969年9月1日、ギターを片手に文化祭のステージに上り、自作曲「鶫の唄」という歌を歌ったのだそうです。
(地味で目立たない生徒だった中島みゆきさんが突然そのような行動に出たことから、周囲は驚いたそうです)
すると、(当時は男尊女卑の考えが根強く残っていたことから、女性がステージに上るということに対しての偏見があり)ヤジやトイレットペーパーが投げつけられたそうですが、
中島みゆきさんが、なんとか歌い切り、ステージを降りると、その瞬間、それまで話たこともなかった女子生徒が歩み寄ってきて、
よかったよ
と、声をかけてくれたそうで、それまで知らなかった人と歌を介して心を通わせたこの瞬間が、中島みゆきさんの原体験となったのだそうです。
中島みゆきは大学生の時にユニット「壊れた蓄音機」を結成し”コンテスト荒らし”の異名をとっていた
こうして、生まれ変わった中島みゆきさんは、札幌にある藤女子大学の国文学科に進学すると、積極的に音楽活動を開始し、北海道大学のフォークサークルにも参加するようになるほか、
女性ヴォーカル2人組のユニット「壊れた蓄音機」を結成し、フォークグループ「五つの赤い風船」などのコピーをしていたそうです。
また、コンテストにも積極的に出場し、多くのコンテストで入賞したことから、”コンテスト荒らし”の異名をとったのだそうです。
中島みゆきは23歳の時「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビュー
そんな中島みゆきさんは、1975年5月、ヤマハ主催の「第9回ポピュラーソング・コンテスト」に応募した「傷ついた翼」が入賞すると、このことがきっかけで、同年9月には、「アザミ嬢のララバイ」で、レコードデビューを果たしています。
中島みゆきは23歳の時に「時代」が「第6回世界歌謡祭」でグランプリを受賞していた
また、1975年10月には、ヤマハ主催の「第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会」で、「時代」がグランプリを受賞、
同年11月16日には、「第6回世界歌謡祭」でも、「時代」がグランプリを受賞しており、
同年12月21日には、2枚目のシングルとして発売すると、20万枚を売り上げるヒットを記録しています。
中島みゆきは25歳の時に5枚目のシングル「わかれうた」がミリオンセラーとなる大ヒット
そんな中島みゆきさんは、1977年には、5枚目のシングル「わかれうた」(1977年9月10日リリース)がミリオンセラーとなる大ヒットを記録をし、一躍、スターダムにのし上がったのでした。
「【画像】中島みゆきの若い頃は?時代ほか代表曲やアルバムを時系列まとめ!」に続く
1975年、23歳の時、「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビューすると、同年には、2枚目のシングル「時代」がヒットし、1977年には、「わかれうた」がミリオンセラーとなる大ヒットを記録した、中島みゆき(なかじま みゆき) …