1968年、22歳の時、「山谷ブルース」でレコードデビューすると、以降、シングル「流れ者」「友よ」などをリリースし、1960年代末には、”フォークの神様”と呼ばれ、時代のカリスマとして君臨した、岡林信康(おかばやし のぶやす)さん。

ただ、岡林信康さんは、その後、周囲に押し付けられたイメージと自身のギャップに苦しみ、一時期は歌をやめていたそうで、

1973年、松本隆さんプロデュースのもとロックに転向して復帰すると、1975年には、演歌路線へと転向していたといいます。

今回は、岡林信康さんの、若い頃(レコードデビュー)から現在までの代表曲やアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。

岡林信康

「岡林信康の生い立ちは?小中高はクリスチャン!大学在学中は山谷のドヤ街で日雇労働!」からの続き

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岡林信康は22歳の時にシングル「山谷ブルース」でレコードデビュー

岡林信康さんは、1968年3月27日、21歳の時、大阪サンケイホールで行われた「アングラ音楽祭」に、当時流行していた「フォーク・クルセダーズ」、高石友也さんらとともに出演すると、大喝采を浴び、新聞にも取り上げられたそうで、

(この頃は、「フォーク・クルセダーズ」の「帰って来たヨッパライ」が大ヒットし、世間ではアングラがブームになっていたそうです)

このことがきっかけとなり、「フォーク・クルセダーズ」や高石友也さんが所属する「高石音楽事務所」からスカウトされると、同年9月、22歳の時には、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でレコードデビューを果たしています。

岡林信康が23歳~24歳の時には”フォークの神様”と呼ばれていた

そして、その後、

  • 1969年3月5日には、「流れ者」
  • 1969年8月1日には、「くそくらえ節」
  • 1969年9月5日には、「友よ」

など、次々とシングルをリリースすると、

岡林信康さんは、たちまち若者たちのシンボルとなり、”フォークの神様”と称されるようになります。

岡林信康は”フォークの神様”と呼ばれることが不本意だった

ちなみに、岡林信康さんの楽曲は反戦歌のイメージが強く、現在も、当時の東大紛争の映像が流れると、必ずと言っていいほど、岡林信康さんの楽曲がバックで流れているのですが、

岡林信康さん本人は、大学を中退したことから学生運動を知らず、デモも一度も行ったことはないといいます。

つまり、反戦を意識して曲を作ったことはなく、作ったのは、男女の関係を歌った歌、政治家や先生の悪口を言う歌だけだったそうですが、なぜか、”学生運動のリーダー””反戦歌手”といったレッテルを貼られてしまったそうで、

岡林信康さんは、

それは迷惑なことだよね。考え方として左翼的だった時期もあるし、妄信していた時期もあったけども、しばらくすればそんなものがバカげた考えだということもわかってきた。

左翼思想にガチガチになって旗を振ったというのはウソですよ。だいたい俺はみんなと徒党を組んでどうこうというのがイヤなの。個人的な人間だから。

と、語っています。

(また、岡林信康さんは”反体制”と言われることも嫌だったそうです)

岡林信康は23歳の時に失踪したことがあった

そんな岡林信康さんは、労音(勤労者音楽協議会)との軋轢(あつれき)や周囲が押し付けてくる”反戦歌手”のイメージに嫌気が差し、

1969年9月23日には、東京労音公演を前に、3ヶ月あまりのスケジュールを残したまま、

下痢を治しに行ってきます

と書き置きし、失踪したことがあったといいます。

岡林信康は復帰後はロックへの転身を図り「はっぴぃえんど」をバックに演奏していた

それでも、岡林信康さんは、1970年4月には、コンサートで復帰しているのですが、実は、この頃、ボブ・ディランの影響を受けてロックへの転身を図り、まだ無名だった細野晴臣さん率いる「はっぴぃえんど」をバックに演奏し始めたそうで、

岡林信康さんは、「はっぴぃえんど」との出会いについて、

俺はずっと弾き語りをやってて、ボブ・ディランなんかのことを知って、彼の「ライク・ア・ローリング・ストーン」に痺れまくって。

俺も弾き語りというのにある種の行き詰まりも考えていたので、ロックをやりたいなあと思って。当時は関西に住んでいたけど、関西にいいバンドがなかった。

皆グループサウンズの延長みたいな。それで、東京にはとてもいいバンドがあるということを知って、はっぴいえんどを知って、僕も東京に移り住んで彼らとやり出したわけです。

と、語っています。

岡林信康が24歳の時にはアルバム「俺らいちぬけた」をリリースするも表舞台から姿を消していた

そんな岡林信康さんは、その後も、

  • 1970年「それで自由になったのかい」
  • 1970年「私たちの望むものは」
  • 1971年「自由への長い旅」

などのシングルを発表し、

1971年8月1日には、3枚目のアルバム「岡林信康アルバム第3集 俺ら いちぬけた」をリリースするのですが・・・

日比谷野外音楽堂での「岡林信康自作自演コンサート 狂い咲き」および「第3回全日本フォークジャンボリー」への出演を最後に、再び表舞台から姿を消してしまいます。

岡林信康は24歳~26歳の時に農村に移り住み農耕生活をしていた

実は、岡林信康さんは、自然の環境に身を置こうと、東京の住まいを引き払い、岐阜県中津川近くの山村に移り住んでいたそうで、さらに、それから約1年後には、京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に移住し、農耕生活を始めていたというのです。

そして、農村に移住後は、ギターには触れず、歌手であることを忘れようとしていたそうで、徐々に、世間の重圧から開放され、リラックスし始めていたそうですが、

そんな中、つぶれかけの蔵の中で、座禅・瞑想を30分ほどするようになると、それから半年程過ぎた頃、誰かに肩をポンと叩かれたような感じがし、

無理をしてきたなぁ。もうこれから無理をする必要はないんだよ

という声が聞こえてきて、

突然、背中に電気が走ったようになり、涙がとめどなく溢れ、30分ほど泣き続けたそうで、

その間、体中を縛っていた鎧が砕け散ったような爽快感が広がっていくような感じがしたのだそうです。

すると、以降、どんどんリラックスすることができるようになり、いろいろな価値観が変わっていったそうで、やがては、新しい音楽を作りたいと思うようになったのだそうです。

岡林信康は27歳の時に松本隆プロデュースでアルバム「金色のライオン」をリリースしていた

こうして、岡林信康さんは、1973年、CBSソニーへ移籍し、音楽活動を再開すると、松本隆さんプロデュースのもと、ロック路線の、

をリリースしたそうですが、

やはり、相変わらず、”フォークの神様”を期待するファンは多かったといいます。

岡林信康は28歳の時に演歌路線のアルバム「うつし絵」をリリースしていた

そんな岡林信康さんは、1975年にも、松本隆さんプロデュースのアルバム「誰ぞこの子に愛の手を」をリリースしているのですが、

そんな中、西川峰子さんの「あなたにあげる」を聴いて感激し、演歌に転向すると、日本コロムビアに移籍。

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ソニーミュージックエンタテインメント

同年7月25日、28歳の時には、演歌路線のアルバム「うつし絵」をリリースしたのでした。

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コロムビアミュージックエンタテインメント

ちなみに、岡林信康さんは、松本隆さんが演歌を歌うことに賛成してくれたことから、松本隆さんプロデュースでCBSソニーから演歌のアルバムを出すつもりだったそうですが、

この頃、美空ひばりさんに自身の楽曲「月の夜汽車」「風の流れ」を採用され、このことがきっかけで美空ひばりさんと知り合い、仲良くなっていたそうで、

美空ひばりさんに、演歌を出すなら日本コロムビアへの移籍を勧められ、日本コロムビアに移籍したのだそうです。

ただ、松本隆さんには、このことをなかなか言い出せなかったそうです。

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岡林信康のアルバム一覧

それでは、ここで、岡林信康さんの主なアルバムをご紹介しましょう。

ほか、数多くのアルバムをリリースしています。

「岡林信康の妻は?吉田日出子は元カノ!子供は息子と娘!孫がジャケットを制作!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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