1980年代、「B&B」として漫才ブームを牽引すると、2004年には、著書「佐賀のがばいばあちゃん」がベストセラーとなり、一躍、人気作家として脚光を浴びた、島田洋七(しまだ ようしち)さん。
そんな島田洋七さんは、2歳の時にお父さんが他界し、しばらくはお母さんに女手一つで育てられるも、お母さんが恋しい中、やがて、佐賀に住むおばあちゃんの家に預けられ、中学卒業までおばあちゃんと暮らすと、
中学卒業後は、野球の特待生として、地元・広島の広陵高校に進学するも、練習中のケガが原因で断念していたといいます。
今回は、島田洋七さんの、幼少期(生い立ち)から「島田洋之介・今喜多代」に弟子入りするまでをご紹介します。
島田洋七のプロフィール
島田洋七さんは、1950年2月10日生まれ、
広島市中区白島九軒町の出身(基町生まれ)、
身長164センチ、
血液型はO型、
学歴は、
広島市立幟町小学校
⇒佐賀市立城南中学校
⇒広陵高校
⇒広島工業大学中退
趣味は、寿司屋巡り、温泉や沖縄へのドライブ、旅行、
ちなみに、本名は、「徳永昭広(とくなが あきひろ)」というそうです。
島田洋七は2歳の時に父親が原爆症で他界していた
島田洋七さんは、2人兄弟の弟として広島で誕生したそうですが、島田洋七さんが2歳の時には、お父さんが原爆症で他界されたそうです。
実は、島田洋七さんのお父さんとお母さんは、広島に原爆が投下された時、佐賀の実家に家族で疎開していたそうですが、
お父さんは、「(原爆投下により)広島がなくなった」(何万人という人がいっぺんに死んでしまった)という話が信じられず、確かめるために、原爆投下から1週間~10日後くらいに広島に戻っていたそうで、
このことが原因で、お父さんは原爆症を患ってしまい(入市被爆)、島田洋七さんが生まれた頃にはすでに病床にあったそうです。
(※「入市被爆(にゅうしひばく)とは、原爆投下後、2週間以内に爆心地から約2キロ以内に入ったことをいうそうです)
島田洋七は小学1年生の時に佐賀の祖母の家に預けられていた
お父さんが他界後は、お母さんが働き、女手一つで島田洋七さんとお兄さんを育ててくれたそうですが、
まだ幼かった島田洋七さんが、お母さんを恋しがり、物騒な夜の盛り場で働くお母さんに、しばしば会いに行っていたことから、
まもなく、島田洋七さん(小学1年生)は、心配したお母さんにより、佐賀の祖母・徳永サノさんの家に預けられることになったそうです。
こうして、島田洋七さんは、小学1年生から中学を卒業するまでの8年間、佐賀のおばあちゃんの家で暮らしたそうですが、
おばあちゃんには、極貧ながら、苦しさを吹き飛ばす明るさがあり、
(上流から捨てられ流れてくる野菜を拾って)川はうちのスーパーマーケットよ。
うちは明るい貧乏だからよか。自信ば持て。うちは先祖代々貧乏だから。
ありがとう、と言えたら天才だよ。
通知表は0じゃなければええ。1とか2を足していけば5になる。人生は総合力たい。
などと言って育てられたそうで、
島田洋七さんは、そんなおばあちゃんに、生きるたくましさを教えてもらったのだそうです。
また、島田洋七さんは、
小学生、中学生の頃の7年間、俺(おれ)は母方の祖母に預けられて育ったのですが、まあ絵に描いたような貧乏でした。でもお金はないけれど、ばあちゃんは知恵があり、いつも笑っていて朗らかで面白かった。
漫才で売れまくっていた時代は自分の過去の話が恥ずかしく、見栄を張って隠していましたけれど、でも人生の岐路に立つとばあちゃんの生き方や口癖に励まされる。俺はすごい宝物を受け取っていたんだと思い至りました
とも、語っており、
後に、この時のおばあちゃんとの暮らしを綴った著書「佐賀のがばいばあちゃん」を出版すると、ベストセラーとなっています。
島田洋七は野球の特待生として広陵高校に進学するも左肘を大ケガして野球を断念していた
その後、島田洋七さんは、1965年春、中学卒業後は、野球がうまかったことから、高校野球の名門である、広島・広陵高校に特待生として入学すると、甲子園、ゆくゆくはプロ野球選手を目指し、朝から晩まで練習に明け暮れる日々を送っていたそうですが、
高校1年生の時、練習中に打球が左肘を直撃し、手が思うように動かなくなってしまい、野球を断念。
当時、野球が人生の全てだったという島田洋七さんは、
もう俺の人生は終わりだ。
と、失意のどん底に叩きつけられたそうです。
島田洋七は20歳の時に現在の妻と東京に駆け落ちしていた
そんな島田洋七さんは、高校卒業後は広島工業大学に進学するも中退し、その後は定職に就かずブラブラしていたそうですが、
(広島市牛田の八百屋「フジモト商店」に、1年半、住み込みで働いていたという話も)
19歳の時、再び佐賀に戻ると、そこで、デパートに勤めていた女性(現在の奥さん)と知り合い、結婚を決意。
ただ、周囲に猛反対されたそうで、20歳の時、2人で東京に駆け落ちしたのだそうです。
島田洋七は20歳の時に漫才師になる決意をしていた
すると、東京では、ほどなくして奥さんの貯金が尽きたそうで、高校の先輩を頼り、大阪に移り住んだそうですが、
(島田洋七さんは歌手を目指していたという話も)
1970年、20歳の時、大阪にいた広陵野球部の先輩に勧められ、当時、吉本興業の看板芸人だった、笑福亭仁鶴さんの落語や、中田カウス・ボタンの漫才を観ると、こんなに笑ったのは生まれて初めてと思うほどの面白さで、
さらには、大勢のファンに囲まれる中、中田カウスさんがポルシェ、笑福亭仁鶴さんがロールスロイスで帰るのを見て、
15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか
と、この瞬間、漫才師になることを決意したのだそうです。
島田洋七は21歳の時に「島田洋之介・今喜多代」に弟子入りしていた
そんな島田洋七さんは、前述の先輩が吉本興業の関係者と知り合いだったことから、紹介してもらい、うめだ花月の進行係に採用してもらったそうですが、
笑福亭仁鶴さんには弟子入りを志願するも、言葉の訛(なま)りを理由に断られてしまったそうです。
そこで、島田洋七さんは、夫婦漫才コンビで、優しそうな「島田洋之介・今喜多代」さんに弟子入りを志願すると、同様の理由で志願者が多かったそうですが、
毎日、島田洋之介さんの元に通い続けると、1ヶ月と4日目の1971年5月(島田洋七さん21歳)に、弟子入りを許されたのだそうです。
「島田洋七の下積時代は?B&Bの相方は洋八の前は上方よしおや団順一だった!」に続く
1972年、22歳の時、「B&B」として「島田洋一」名義で漫才師デビューすると、その”マシンガン漫才”でたちまち脚光を浴びた、島田洋七(しまだ ようしち)さんですが、 1973年には、相 …