日劇ミュージック・ホールで、ヌードダンサーとして活動した後、山形弁を持ち味にしたコメディエンヌとしてテレビ番組「独占!男の時間」に出演すると、

1976年には、映画「河内のオッサンの唄 よう来たのワレ」で女優デビューし、1983年には、今村昌平監督の映画「楢山節考」に出演し、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞するなど、演技派女優としての地位を確立した、あき竹城(あき たけじょう)さん。

そんなあき竹城さんは、幼い頃から宝塚歌劇団に憧れ、中学卒業後は、一旦、高校に進学するも、宝塚歌劇団を目指して高校を中退していたといいます。

今回は、あき竹城さんの幼少期(生い立ち)から日劇ミュージックホールでヌードダンサーとして活動していた頃までをご紹介します。

あき竹城

Sponsored Link

あき竹城のプロフィール

あき竹城さんは、1947年4月4日生まれ、
山形県米沢市の出身、

身長167センチ、

靴のサイズは24.5センチ、

血液型はO型、

学歴は、
米沢市立東部小学校
⇒米沢市立第一中学校
⇒米沢市内の女子高校中退

趣味は、ホーロー看板の収集、不二家のペコちゃんの人形・グッズの収集、

だそうです。

あき竹城の本名は?芸名の由来は?

あき竹城さんの本名は「竹田明子」(たけだ あきこ)で、結婚後は「平岡明子」となったそうですが、

芸名の「あき竹城」は、大阪のクラブに出演していた頃に考えたそうで、

姓は、「竹で城を造ったら風を受けて傾いても、しなって倒れない」ことから「竹城」、名は、周りの人から「あきさん」と呼ばれたいと思い、当初は、「竹城あき」(たけじょう あき)と名乗っていたそうですが、

よく「たけしろ」と読み間違えられたことから、名前を先にして、「あき竹城」に変更したのだそうです。

(「あき竹城」にしたことで、周りの人も、ちゃんと「たけじょう」と呼んでくれるようになったそうです)

あき竹城は3歳の時に父親が他界し母親に育てられていた

あき竹城さんは、バイオリン奏者だったお父さんのもと、6人きょうだいの末っ子として山形県米沢市で誕生したそうですが、

3歳の時に、お父さんが肺病で他界したことから、以降は、お母さんが米や野菜の行商をして育ててくれたそうです。

あき竹城は小学4年生の時に宝塚歌劇団に憧れ、モダンダンスを習い始めていた

また、あき竹城さんは、幼い頃から宝塚歌劇団に強い憧れを抱いていたそうで、

小学4年生の時には、米沢市内唯一のモダンダンス教室でダンスを習い始めると、中学時代には、学校の部活には入らず、ダンスの練習に打ち込んだそうです。

あき竹城は宝塚歌劇団入団を目指して高校を中退し大阪へ移住していた

そんなあき竹城さんは、中学卒業後、一旦は、地元の女子校に進学し、高校でもダンス部に所属したそうですが、

宝塚歌劇団への憧れから、高校を中退して、大阪のキャバレーでフロアダンサーをしていた、10歳年上のお姉さんを頼って大阪に行き、宝塚歌劇団への入団を目指したそうです。

(中学卒業後に大阪に向かったという話もあるようですが、いずれにしても、高校に在学していた期間はとても短かったと思われます)

Sponsored Link

あき竹城は27歳頃に日劇ミュージックホールでヌードダンサーとして活動していた

ただ、ほどなくして、レッスン費用が捻出できなくなり、宝塚歌劇団への入団は断念したそうで、

その後は、大阪で手品師の内弟子となり、料理や掃除など、師匠の身の回りの世話のほか、舞台のアシスタントを務めたそうですが、その後、大阪でダンサーとしてデビューし、全国各地を巡業すると、

さらに、その後、東京に拠点を移し、1974年、27歳の時には、日劇ミュージックホールでヌードダンサーとして舞台に立ったそうで、

浅茅けいこさんらと共に、テレビ番組「独占!男の時間」に出演し、トップレスでのダンスを披露したそうです。

とはいえ、仕事は決して順調満帆ではなく、なかなか芽が出ないまま、地方のキャバレーなどを巡る日々が続いたのだそうです。

(当時、日劇ミュージックホールでは、トップレスの女性ダンサーによるレビューがメインで上演されており、衣服を脱いでいく過程のあるストリップとは異なります)

「【画像】あき竹城の若い頃は?「トラック野郎」「楢山節考」ほか出演ドラマ映画は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link