生後まもなく、アメリカ人のお父さんが一人アメリカに帰国してしまい、お母さんに育てられると、読書をしたり、散文詩を書くことが好きな反面、中学生の時には、バスケットボール部に所属するなど、二面性のある少女だったという、カルメン・マキ(かるめん まき)さん。
今回は、そんなカルメン・マキさんの、幼少期(生い立ち)から寺山修司さん主宰の「天井桟敷」に入団するまでをご紹介します。
カルメン・マキのプロフィール
カルメン・マキさんは、1951年5月18日生まれ、
神奈川県鎌倉市の出身、
(東京育ち)
学歴は、
香蘭女学校高等学校中退、
ちなみに、カルメン・マキさんは、
父方の祖父はアイルランド人、
父方の祖母はユダヤ系ポーランド人、
父親はアメリカ人、
母親は日本人、
とハーフで、
本名は非公開ですが、1993年に日本国籍を取得するまでは「Maki Annette Lovelace」だったそうです。
なお、芸名の「カルメン・マキ」は舞台の練習中にたまたま思いついたものだったそうです。
(「演劇実験室 天井桟敷」時代は「伊藤牧」名義で活動していたそうです)
カルメン・マキの父親は生後まもなく一人でアメリカに帰国していた
カルメン・マキさんは、アメリカ人のお父さんと日本人のお母さんのもと、神奈川県鎌倉市で一人っ子として誕生したそうですが、
生後まもなく、お父さんが一人でアメリカに帰国してしまったことから、お母さんに連れられて東京に移住し、お母さんに育てられたそうです。
カルメン・マキの少女時代は読書や散文詩を書くことのほか運動も好きだった
そんなカルメン・マキさんは、一人っ子だったこともあり、自然と自分と向き合う時間が多く、読書をしたり、思いついたまま、散文詩をノートに書いたりすることが好きな女の子だったそうです。
ただ、運動も大好きだったそうで、中学時代はバスケットボール部に所属していたそうで、
カルメン・マキさんは、
私って二面性があるんですよね。歌も朗読などのアングラとロックというように静と動があります
と、語っています。
カルメン・マキは17歳の時に寺山修司主催の「演劇実験室 天井桟敷」に入団し「書を捨てよ、町へ出よう」で初舞台
その後、カルメン・マキさんは、中学卒業後は、都内のお嬢様系ミッションスクール香蘭女学校高等学校に進学したそうですが、1968年、高校2年生の時、中退したそうで、
(イラストレーターか役者になろうと考えていたそうです)
毎日、新宿や渋谷のJAZZ喫茶やディスコに入り浸っていたところ、たまたま、友人に連れられ、寺山修司さん主宰の「演劇実験室 天井桟敷」の公演「青髭」を観に行くと、
(ジャズ喫茶に貼ってあった「天井桟敷」のポスターを見たという話も)
その舞台に感銘を受け、即入団したそうで、同年(1968年)8月、新宿厚生年金会館で行われた「書を捨てよ、町へ出よう」で初舞台を踏んだのだそうです。
(当時、寺山修司さんは、前年1967年に「演劇実験室 天井桟敷」を創立し、時代の風雲児となっていました)
「【画像】カルメンマキの若い頃から現在までの代表曲(シングル)や経歴は?」に続く
1969年、17歳の時に、「時には母のない子のように」で歌手デビューすると、いきなりミリオンセラーを記録し、その後も、「山羊にひかれて」「私が死んでも」「戦争は知らない」などが次々とヒットした、カルメン・マキ(かるめん …