1969年、17歳の時に、「時には母のない子のように」で歌手デビューすると、いきなりミリオンセラーを記録し、その後も、「山羊にひかれて」「私が死んでも」「戦争は知らない」などが次々とヒットした、カルメン・マキ(かるめん まき)さん。
今回は、そんなカルメン・マキさんの、若い頃(レコードデビュー)から現在までの代表曲(シングル)ほか経歴を時系列でご紹介します。
「カルメンマキの生い立ちは?高校中退!寺山修司の天井桟敷に入団していた!」からの続き
カルメン・マキは17歳の時に初舞台で寺山修司に素質を見出されていた
1968年、17歳の時、たまたま、友人に連れられ、寺山修司さん主宰の「演劇実験室 天井桟敷」の公演「青髭」を観に行った際、その舞台に感銘を受け、「演劇実験室 天井桟敷」に入団したというカルメン・マキさんは、同年(1968年)8月には、「書を捨てよ、町へ出よう」で初舞台を踏んだそうですが、
この舞台で、カルメン・マキさんに資質を感じた寺山修司さんは、同時期、建築家の黒川紀章さんから依頼されていたディスコ「スペースカプセル」のオープニングイベントの企画の中で、
自身が作った歌詞に、自身の秘書・田中未知さんが曲をつけた「時には母のない子のように」を、カルメン・マキさんに歌わせ、詩の朗読もさせることに決めたといいます。
(「スペースカプセル」は、黒川紀章さん設計の赤坂のディスコで、内装がすべてステンレスに覆われ、宇宙ロケットの内部を思わせる斬新なデザインが話題となりました)
カルメン・マキは17歳の時にデビュー曲「時には母のない子のように」が大ヒット
こうして、ディスコ「スペースカプセル」のオープニングイベントの当日、カルメン・マキさんが、「時には母のない子のように」を歌い、詩の朗読をすると、
これを聞いたCBSソニーのディレクターの酒井政利さんと金塚晴子さんの目に留まり、スカウトされたそうで、
カルメン・マキさんは、1969年2月21日、CBSソニーから「時には母のない子のように」で歌手デビューすると、そのブルージーな歌声が評判となり、たちまち、ミリオンセラーとなる大ヒットを記録し、この年の紅白歌合戦にも初出演を果たしたのでした。
(当時、CBSソニーは、新しく発足したばかりのレコード会社だったそうです)
「時には母のない子のように」
カルメン・マキは18歳の時に「山羊にひかれて」「私が死んでも」「戦争は知らない」などヒット曲を連発していた
その後もカルメン・マキさんは、
- 1969年7月「山羊にひかれて」(作曲:田中未知)
「山羊にひかれて」 - 1969年10月「私が死んでも」(作曲:田中未知)
- 1969年「戦争は知らない」(作曲:加藤博)
と、寺山修司さん作詞によるシングルを次々とリリースすると、ヒットを連発し、
1969年8月には、ファースト・アルバム「カルメン・マキ真夜中詩集ーろうそくの消えるまでー」もリリースしているのですが、
カルメン・マキさんは、このアルバムについて、
1968年頃に赤坂にスペースカプセルというゴーゴークラブがありまして、そこのイベントを寺山修司さんがプロデュースしたのですが、その中で私のコーナーみたいなのがあって、私はそこで歌と詩の朗読をやっていました。
その内容をほぼそのままアルバム化したのが、私のデビュー・アルバムの『真夜中詩集 カルメン・マキ~ろうそくの消えるまで』です。
それはカルメン・マキのアルバムというよりも、私は寺山修司作品じゃないかなと今は思ってます。
まあそれだけ寺山修司さんという人が私を理解し、また17歳の少女の感性、私の生い立ちもふくめて、とても私をよく理解してくれていたからこそ、ああいうアルバムができて、ほんとにプロデューサーと歌手のとてもいい、完成された珍しい傑作じゃないかなと自画自賛しております。
と、語っています。
カルメン・マキは20歳の時にロックアルバム「カルメン・マキ&ブルース・クリエイション」をリリースしていた
そんなカルメン・マキさんは、個性派シンガーとして活躍していたのですが、1970年、アメリカのロックシンガーの、ジャニス・ジャップリンさん、ジミ・ヘンドリックスさん、フリートウッド・マックさん、マイクブルームフィールドさんらの影響を受け、突然、ロックに転向すると、
その直後、近田春夫さん、立川直樹さんらとバンド「カルメン・マキ&タイムマシーン」を結成するも、すぐに解散。
その後、様々なバンドを経て、1971年、20歳の時には、ギタリストの竹田和夫さん率いる「ブルース・クリエイション」とのコラボレーション・アルバム「カルメン・マキ&ブルース・クリエイション」をリリースしています。
カルメン・マキは24歳の時にロックアルバム「カルメン・マキ&OZ」が大ヒット
その後、カルメン・マキさんは、1972年、21歳の時には、ロックバンド「カルメン・マキ&OZ」を結成するのですが、所属事務所からキャバレー回りを強要されたそうで、時には、お客さんから、「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったそうですが、
そんな地道な活動が実を結び、1974年には、「カルメン・マキ&OZ」として、シングル「午前一時のスケッチ」でデビューを果たすと、翌年の1975年にリリースしたファーストアルバム「カルメン・マキ&OZ」が10万枚以上を売り上げ、当時のロックアルバムとしては異例の大ヒットを記録しています。
(このアルバム「カルメン・マキ&OZ」には、カルメン・マキさんが作詞した「私は風」が収録されているのですが、後に、中森明菜さんやB’zなど、数多くのアーティストにカバーされています)
カルメン・マキは29歳の時に大麻所持とヘロイン所持で2回逮捕されていた
その後、カルメン・マキさんは、「カルメン・マキ&OZ」も1977年に解散すると、以降、「カルメン・マキ&LAFF」(後に「カルメン・マキ&5X」に改名)などのバンド活動のほか、ソロとしても活動し、日本における女性ロックシンガーの第一人者として活躍していたのですが・・・
1980年9月20日、29歳の時には、在日米軍人の家で大麻パーティーを行っているところを警察に踏み込まれて、現行犯で逮捕されると(すぐに保釈されたそうです)、
同年11月12日にも、ヘロイン所持で再逮捕されています。
カルメン・マキは42歳の時にアルバム「MOON SONGS」をリリース
それでも、その後、音楽活動に復帰すると(いつ頃かは不明)、1987年頃、出産と育児のため、一時、音楽活動を休止するも、
1993年には、音楽活動を再開し、同年には、子守唄をベースとしたアルバム「MOON SONGS」発表しています。
「MOON SONGS」
カルメン・マキは44歳の時に「VOICE OF MOSES」をリリース
また、1994年、43歳の時に、「MOSES」結成すると、翌1995年、44歳の時には、「VOICE OF MOSES」をリリースしています。
カルメン・マキは47歳以降はフリーとして活動
そんなカルメン・マキさんは、1998年には、後藤次利さん、笹路正徳さん、春日博文さん、朝本浩文さん、辻仁成さん、木暮武彦さんという、錚々(そうそう)たるプロデューサー6名を迎え、アルバム「SPLIT」をリリースしているのですが、
長年に渡る商業主義的な歌手活動についての疑問や不満が拭い切れなかったそうで、所属していたレコード会社、プロダクションを離れて、フリーとなり、
2001年以降は、ロック、フォークなどといったジャンルにとらわれず、様々なフィールドで活躍するミュージシャン達とのコラボレーションを積極的に行うようになっています。
カルメン・マキは68歳の時にバンド「カルメン・マキ&OZ」のデビュー45周年記念再結成ツアー
そして、2018年10月には、「カルメン・マキ&OZ」として約21年ぶりにライブを開催すると、
その後、数多くのファンからの要望を受け、翌年の2019年11月には、「カルメン・マキ&OZ」のデビュー45周年記念再結成ツアーを行っています。
(「カルメン・マキ&OZ」は、1974年、シングル「午前1時のスケッチ」でデビューし、1975年、ファーストアルバム「カルメン・マキ&OZ」をリリースしています)
カルメン・マキは68歳の時にデビュー50周年を迎えていた
ちなみに、カルメン・マキさんは、2011年、東北大震災が起こった後、「デラシネ」(根無し草という意味)という歌詞を書いているのですが、
生い立ちのせいで、やはり自分は1人なんだ、という孤独感が子どもの頃からずっとあったそうで、
(2018年に)母が亡くなり、もう誰もいなくなり、本物のデラシネになっちゃった。でも私のようなデラシネ、たくさんいるでしょうという思いを込めて、歌っています。絶望感はあっても生を全うしないといけないなと思っています
(2019年でデビュー50周年となり)17歳から社会に出て歌ってきたので。唄うことしかできない私ですが、私の歌を聴いてくれる人がいるおかげだと思います。まさか50年も続けられるとは・・・。
当時、マスコミには一発屋と言われましたが、その悔しさもあって。ざまあみろだよね(笑)
と、語っています。
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カルメン・マキのシングル一覧
それでは、最後に、カルメン・マキさんのシングルをご紹介しましょう。
- 1969年「時には母のない子のように」
「時には母のない子のように」 - 1970年「東京はみなし児 Town Of Orphans」
- 1973年「あなたが欲しい」
「あなたが欲しい」 - 1979年「青白い夕焼け(リュウのテーマ)」
- 1980年「It’s Only Rock’n Roll」
- 1983年「FANTASY」
- 1993年「時には母のない子のように・新録音」
- 1995年「夜間飛行」
- 1996年「星の河を渡ろう」
- 1998年「ワイルドフラワー」
- 2017年「デラシネ」
などのシングルをリリースしています。
「カルメンマキの夫は?子供は娘?元彼シナトラとは田原総一朗がきっかけ?」に続く
1969年、17歳の時、「時には母のない子のように」でレコードデビューして以来、ソロやバンドで精力的に音楽活動を続けている、カルメン・マキ(かるめん まき)さん。 そんなカルメン・マキさんのプライベートはどのようなものだ …