1969年、17歳の時、「時には母のない子のように」でレコードデビューして以来、ソロやバンドで精力的に音楽活動を続けている、カルメン・マキ(かるめん まき)さん。
そんなカルメン・マキさんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、カルメン・マキさんの夫、子供、元彼・志那虎(シナトラ)さんとの仰天の馴れ初めなどをご紹介します。
「【画像】カルメンマキの若い頃から現在までの代表曲(シングル)や経歴は?」からの続き
カルメン・マキの夫は?結婚していた?
カルメン・マキさんは、ベーシストの盛山キンタさんと結婚しているという話があるようですが、詳細な情報が公開されておらず、真偽は不明です。
「カルメン・マキ&LAFF」。左端が盛山キンタさん。
ちなみに、盛山キンタさんは、カルメン・マキさんが「カルメン・マキ&OZ」解散後、1980年に結成した「カルメン・マキ&LAFF」というバンドのベーシストとして、当時は、「盛山浩」という名前で活動していました。
また、盛山キンタさんは、2014年11月25日に開催されたカルメン・マキさんの45周年記念ライブにも、ベーシストとして出演しており、少なくとも、この時点では、音楽的なつながりがあったようですが、盛山キンタさんは、2020年に他界されています。
カルメン・マキの子供は娘が1人?
ただ、カルメン・マキさんは、1987年、出産と育児のため、一時的に音楽活動を休止していることから、少なくとも、子供が1人いることが分かっています。
ちなみに、その子供は娘だと言われているのですが、こちらも、結婚同様、真偽は不明です。
カルメン・マキは田原総一朗のドキュメンタリーがきっかけで志那虎(シナトラ)と交際していた
そんなカルメン・マキさんは、1969年頃、「時には母のない子のように」で歌手デビューする前の、劇団「天井桟敷」時代に、同じ「天井桟敷」の団員だった志那虎(シナトラ)さんという人と交際していたといいます。
志那虎さん。
実は、当時、過激なドキュメンタリーを撮影しようと躍起になっていた田原総一朗さんが、1969年、ドキュメンタリー番組「『わたしたちは・・・』~カルメン・マキの体験学入門」を手掛けているのですが、
当時、カルメン・マキさんが、「わたしたちは」という詩(日記とも)の中で、
わたしたちは三畳の部屋に住んでいた
と、書いていたことから、
(カルメン・マキさんは、実際には、お母さんと一緒に住んでいたそうです)
田原総一朗さんが、実験的に、カルメン・マキさんと志那虎さんに恋人役をやってもらい、アパートを借りて同棲させ、カルメン・マキさんの詩(日記)の記述通り、二人で裸でパンを食べさせたり、二人で海に行かせたりしていたそうですが、
そのうち、カルメン・マキさんと志那虎さんは、本当に愛し合うようになったのだそうです。
カルメン・マキは志那虎(シナトラ)と別れるよう寺山修司に説得されるも拒否し「天井桟敷」を退団していた
そんな中、カルメン・マキさんが、1969年2月、「時には母のない子のように」で歌手デビューすると、たちまち大ヒットして、一躍、脚光を浴びたことから、
カルメン・マキさんを”海から来た少女”として売り出していたレコード会社のCBSソニーが、”海から来た少女”が男と同棲しているのでは都合が悪いということで、劇団「天井桟敷」の主宰者で「時には母のない子のように」を作詞した寺山修司さんに、「あの男と別れさせてくれ」と泣きついたそうで、
寺山修司さんが、志那虎さんと別れるように説得したそうですが、カルメン・マキさんは受け入れず、「天井桟敷」を辞めてしまったそうで、
寺山修司さんは、志那虎さんにもカルメン・マキさんと別れるよう説得したそうですが、やはり、志那虎さんもこの説得をはねつけたそうで、口論の末、「天井桟敷」を退団したのだそうです。
(田原総一朗さんは、この一連の流れを全て撮影しており、1971年2月17日、ドキュメンタリー「ある告白~カルメン・マキの二年間~」で放送されています)
ちなみに、その後、カルメン・マキさんと志那虎さんがいつ頃まで交際し、どのような理由で別れたのか、詳細は不明です。
また、志那虎さんは、「天井桟敷」退団後は、田原総一朗さんの作品の助監督を務めていたそうですが、その後については、不明です。
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