学生時代から、建築家として頭角を現すと、新しい都市・建築理念である「メタボリズム」を提唱し、瞬く間に世界的に有名になった、日本を代表する現代建築家、黒川紀章(くろかわ きしょう)さん。

今回は、そんな黒川紀章さんの若い頃からの活躍や経歴を学生時代から時系列でまとめてみました。

黒川紀章

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黒川紀章のプロフィール

黒川紀章さんは、1934年4月8日生まれ、
愛知県海部郡蟹江町の出身、

本名は、「黒川紀章(くろかわ のりあき)」

学歴は、
東海高等学校
⇒京都大学工学部建築学科
⇒東京大学大学院工学系研究科

ちなみに、黒川紀章さんは、お父さんの黒川巳喜(くろかわ みき)さん、弟の黒川雅之さん、黒川喜洋彦さんも建築家です。

黒川紀章は京都大学で西山卯三に師事し、東京大学大学院では丹下健三の研究室で学んでいた

黒川紀章さんは、1953年、東海高等学校卒業後、京都大学工学部建築学科に進学すると、在学中は、西山卯三(にしやま うぞう)さん(食寝分離の公営住宅標準設計「51C型」を開発)に師事し、

その後、1957年、京都大学卒業後は、東京大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程へ進学すると、日本の近代建築の礎を築いた丹下健三さんの研究室に所属し、ここで建築について学んだそうです。

黒川紀章は25歳の時に菊竹清訓らとメタボリズムを提唱していた

そんな黒川紀章さんは、1958年、24歳の時、「第五回世界建築学生会議」に日本代表として参加して有名になると、その後、たちまち頭角を現し、

1959年、25歳の時には、菊竹清訓さん、浅田孝さん、大高正人さん、槇文彦さんら若い建築家・デザイナーグループと、新しい都市・建築理念である「メタボリズム」を提唱して、さらに有名になり、

黒川紀章さんのこれまでにない、斬新なアイディア(建築デザイン)は、日本のみならず、世界中の建築業界にも大きな影響を与えたのでした。

(メタボリズムとは、「新陳代謝」という意味で、生物が新陳代謝を行うように、建築や都市も社会の変化や人口の成長に合わせて空間や設備を取り替えながら成長するべきだという考え方で、1960年代から1970年大阪万博にかけての前衛建築運動のことをいい、従来の静的な都市計画とは一線を画していたそうです)

黒川紀章は28歳の時に㈱黒川紀章建築都市設計事務所を設立していた

そんな黒川紀章さんは、1962年、28歳の時には、丹下健三さんの研究室から独立し、自身の事務所「株式会社黒川紀章建築都市設計事務所」を設立しています。

黒川紀章が38歳の時にはカプセルタワービルを設計・建設していた

ちなみに、黒川紀章さんのメタボリズムを代表する建築には、1970年に開催された、大阪万博での「空中テーマ館住宅カプセル」「タカラビューティリオン」「東芝・IHI」のパビリオンと、1972年に東京都・銀座8丁目に設計・建設した集合住宅「中銀(なかぎん)カプセルタワービル」があるのですが、

このカプセルタワービルは、個々のカプセルユニットが交換でき、建物全体が成長し続けることができるようになっていたといいます。

黒川紀章

(世界初のカプセル型の集合住宅で、カプセルを交換しながら200年維持する構想だったそうですが、どれか一つを取り替えることが難しく、かといって、すべてを一挙に変えるという手法も所有者の意見がまとまらなかったそうで、2022年に解体されています)

黒川紀章の設計した主な建築物

そんな黒川紀章さんは、

  • 1967年(33歳)には、「寒河江市役所庁舎」
    黒川紀章
  • 1970年(36歳)には、「大阪万博パビリオン」
    黒川紀章
  • 1972年(38歳)には、「中銀カプセルタワービル」
    黒川紀章
  • 1988年(54歳)には、「名古屋市美術館」
    黒川紀章
  • 1989年(55歳)には、「広島市現代美術館」
    黒川紀章
  • 1998年(64歳)には、「クアラルンプール新国際空港」
    黒川紀章
  • 1999年(65歳)には、「ヴァンゴッホ美術館新館」
    黒川紀章
  • 2006年(72歳)には、「国立新美術館」
    黒川紀章

などの建築物をを設計しています。

黒川紀章は前衛的建築家のイメージで長年仕事がなかった

ただ、黒川紀章さんは、常に”前衛”でい続けなければいけない、という苦悩を抱えていたそうで、2001年、建築家のインタビューをまとめた書籍「建築家という生き方」では、

博覧会(1970年の大阪万博)の実験的なパビリオンのため前衛的建築家のイメージがついて回り、仕事から遠ざかってしまったのです。

財界の人から、『三角やカプセルでは困ると担当者が言うので、ほかの人に頼んだ』という話も何度か聞きました

昭和天皇の園遊会で、陛下から『まだ、カプセルをやっているんですか』と声をかけられたくらいですから。でも、あのような建築が普遍的に受け入れられるわけではありません

事務所が軌道に乗ってきたといえるのは、ようやく7~8年前くらい(1990年前後)ですよ。それまでは自己負債もあって、本当に返せるか、不安を抱えていました

と、語っています。

黒川紀章は73歳の時に東京都知事選・参院選に立候補するも共に落選していた

また、黒川紀章さんは、2007年、73歳の時には、共生新党を結党し、4月には東京都知事選、7月29日には参院選に立候補しているのですが・・・

いずれも落選しています。

黒川紀章
選挙活動中の黒川紀章さんと妻の若尾文子さん。

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黒川紀章の死因は?

そんな中、黒川紀章さんは、参院選から2ヵ月後の2007年10月12日午前8時42分、すい臓ガンにより、73歳で他界されています。

実は、黒川紀章さんは、死去する2年ほど前にすい臓ガンが見つかり、手術をしていたそうですが、公表しておらず、なんと、妻の若尾文子さんにすら、最期の会話の時まで、ガンであることを知らせていなかったといいます。

「黒川紀章の元妻は?再婚相手・若尾文子との馴れ初めは?別居生活も夫婦仲は良好だった!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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