長崎俊一監督の自主制作映画への出演を経て、1980年、「ヒポクラテスたち」でテレビドラマデビューすると、以降、「家なき子」「味いちもんめ」「竜馬におまかせ!」「イタズラなKiss」などで、個性的な役柄を演じてきた、内藤剛志(ないとう たかし)さん。
そんな内藤剛志さんは、NHK大阪児童劇団に入団し、小学生の時には、子役として映画やテレビドラマに出演していたそうですが、
中学生の時にサックスを習い始めると、高校時代には、ジャズバンドを結成して演奏するなど、ジャズに夢中になり、高校卒業後は、プロのジャズミュージシャンを目指して、上京していたといいます。
今回は、内藤剛志さんの幼少期(生い立ち)から俳優を目指すまでをご紹介します。
内藤剛志のプロフィール
内藤剛志さんは、1955年5月27日
大阪府大阪市東区(現・中央区)生まれ、
(寝屋川市香里園、枚方市、大阪市東区(現・中央区)育ち)
身長183センチ、
体重77キロ、
血液型はO型、
学歴は、
大阪市立集英小学校(現・開平小学校)
⇒大阪市立船場中学校(現・東中学校)
⇒大阪星光学院高等学校卒業
⇒日本大学芸術学部映画学科中退
(内藤剛志さんの母校の大阪星光学院高等学校は、2025年現在で偏差値76と、大阪府で最も高い偏差値を誇っているのですが、当時から偏差値が高く、内藤剛志さんが頭脳明晰であることが伺えます)
趣味は、読書、音楽鑑賞、バイク水泳、
特技は、ピアノ、サックス、ギター、ウッドベース、バイオリン、トランペット、クラリネット、フルート、
ちなみに、「内藤剛志」は本名、
所属事務所は、「阪口京子事務所」です。
内藤剛志の関西弁は不自然?
内藤剛志さんは、大阪出身なのですが、
ネット上では、
内藤剛志さんが話す関西弁に違和感を覚える
という意見が、ちらほら見られるほか、
内藤剛志さん自身も、トーク番組「徹子の部屋」に出演した際、テレビドラマ「科捜研の女」で主演の沢口靖子さんと関西弁で話すシーンの評判が悪かったことを明かしています。
ドラマの演出上、登場人物が関西人ではない設定になっていたためかもしれませんが、
実は、内藤剛志さんは、普段は関西なまりのない標準語を話し、ドラマで関西人の役を演じる時や、関西出身のタレントさんと話すときだけ、関西弁を話すとのことなので、
もしかしたら、長年の標準語の鍛錬で、関西人ぽくない関西弁になってしまったのかもしれませんね。
内藤剛志は韓国人?
そんな内藤剛志さんですが、内藤剛志さんを「韓国」で多くの人が検索されているようです。
内藤剛志さんは、2025年、ラジオ番組「くにまる食堂」で、北朝鮮の金正恩総書記が制作に関わった映画「72時間」について、野村邦丸アナウンサーと意見を交わしているのですが、このことが原因で、「韓国」で調べられているのかもしれません。
また、内藤剛志さんが韓国人であるという確たる話はありません。
内藤剛志の母親は妊娠中に病気にかかり、全身麻酔なしで手術して内藤剛志を出産していた
内藤剛志さんは、NHK大阪放送局の職員だったお父さんと人形製作をしていたお母さんのもと、一人っ子として誕生したそうですが、
実は、お母さんは、内藤剛志さんを妊娠中に病気にかかって、全身麻酔をせずに手術し、命がけで内藤剛志さんを出産したといいます。
内藤剛志さんは、この話を、黒柳徹子さんのトーク番組 「徹子の部屋」で明かしているのですが、命がけで生んでくれたお母さんには、今でも頭が上がらず、本当に感謝していると語っています。
内藤剛志は小学生の時から子役として活動していた
内藤剛志さんは、3歳の時から、ピアノとヴァイオリンを習い始めると、その後も、習字、そろばん、能など、たくさんの習い事をしていたそうですが、
お父さんが、NHKのドラマ制作の技術者(スイッチャー)だったことから、NHK大阪児童劇団にも幼い頃に入団すると、小学生の時には、子役として映画やテレビに出演していたそうです。
児童劇団時代の内藤剛志さん。
内藤剛志は高校時代はジャズミュージシャンになりたいと思っていた
また、内藤剛志さんは、中学生からサックスを習い始めると、高校1年生の夏休みには、建設現場で40日間の泊まり込みのアルバイトをして稼いだ10万円で、ヤマハのテナーサックスを購入し、同じ高校の仲間4人とジャズバンドを結成したそうで、
文化祭やジャズ喫茶で演奏するなど、ジャズに夢中になり、将来はプロのジャズミュージシャンになりたいと思うようになったそうです。
(ギターとトランペットも独学でマスターしたそうです)
内藤剛志は高校卒業後ジャズ・ミュージシャンを目指し上京するもすぐに断念していた
そんな内藤剛志さんは、大好きなジャズで身を立てるべく、高校卒業後は、野心を燃やして上京し、「飯田ジャズスクール」に入学したそうですが・・・
すぐに、とんでもない才能の奏者と出会ったそうで、
とても敵わない・・・
と、世の中は広いと思い知り、ジャズ・ミュージシャンへの道を断念したのだそうです。
内藤剛志は映像の世界で生きる決意をしていた
そこで、内藤剛志さんは、頭を切り替え、
では、自分を活かせる道は何か
と、考えた時、映像の世界で生きようと決意したそうで、
やはり父親の影響があったかもしれません。ドラマを作る面白さ、あこがれがあったといいますか。
それで日大(日本大学)の芸術学部に入ったわけです。でも俳優になるなんて思ってもみなかったですよ
と、語っています。
内藤剛志は長崎俊一の自主映画で主演を務めたことをきっかけに俳優の勉強を始めていた
その後、内藤剛志さんは、日本大学芸術学部映画学科に入学したそうですが、1年で中退すると、同級生だった長崎俊一さん(現・映画監督)と一緒に自主映画を撮り始めたそうで、
長崎俊一さんに言われて、たまたま、主演も務めることになると、このことがきっかけとなり、するのならちゃんと演技の勉強をしてみようと思い、「文学座研究所」に入所したのだそうです。
内藤剛志は20代前半の頃に文学座研究所に入所し芝居に魅せられるようになっていた
こうして、「文学座研究所」に16期生として入所した内藤剛志さんは、次第に、芝居に魅せられていき、役者で食べていこうと決意したそうで、
(お父さんには猛反対されたそうですが、迷いはなかったそうです)
その後、長崎俊一さんが監督した自主映画「獏をぶっ殺せ」「造花の枯れる季節」など多数の作品で主演を務めたそうですが・・・
やがて、
自主映画では飯が食えない
と、思うようになったそうで、
広く観客の動員が見込める、商業映画での活躍を目指すようになったのだそうです。
「【画像】内藤剛志の若い頃は?デビューから現在までの出演ドラマ映画は?」に続く
1980年、25歳の時、映画「ヒポクラテスたち」で俳優デビューすると、その後、数多くの映画やテレビドラマに出演し、 1994年には、テレビドラマ「家なき子」で主人公をイジメる酒浸りの父親役を演じ、ドラマのヒットとともに一 …