杉下茂は阪神投手コーチ時代ジーン・バッキーを鍛えていた! 野球 1961年、大毎オリオンズで現役引退後、1962年には大毎オリオンズの一軍コーチに就任していた、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、1963年には、高校時代からの恩師・天知俊一さんの一言で阪神タイガースの投手コーチをす […] 続きを読む
杉下茂は中日監督辞任後に大毎オリオンズで現役復帰していた! 野球 1958年のシーズン終了後、33歳にして、投手としての登板を考慮されない兼任監督(実質的には監督専任)に就任した、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、2年で監督を辞任すると、次の年には、なんと、大毎オリオンズで現役復帰 […] 続きを読む
杉下茂は33歳で兼任監督就任要請を受けるも実質的には監督専任だった! 野球 1954年には、32勝を挙げる活躍で、中日ドラゴンズ初のリーグ優勝と日本一に導いた、杉下茂(すぎした しげる)さんは、その後も、1955年は26勝、1956年は14勝、1957年は10勝、1958年は11勝を挙げているの […] 続きを読む
杉下茂と金田正一はお互い認め合う仲だった! 野球 日本プロ野球界で初めてフォークボールを本格的に習得し、その直角に落ちる球は「魔球」と呼ばれたという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、1950年代、国鉄スワローズのエースとして君臨していた金田正一さんとは、いつも投手戦を […] 続きを読む
杉下茂ら中日選手は天地俊一監督の為に優勝を目指していた! 野球 1954年の日本シリーズ(西鉄戦)第7戦では、高校時代からの恩師で、中日ドラゴンズの監督だった天知俊一さんを日本一にさせたい一心で、普段は投げ控えていたフォークボールを40球以上投げたという、杉下茂(すぎした しげる)さ […] 続きを読む
杉下茂がたった一度だけフォークボールを多投した試合とは? 野球 味方の野手から「一人で野球やるな」「オレらにも野球やらせろ」と怒鳴られたほか、自身も直球で勝負したいという気持ちがあったことから、普段は1試合(特に巨人戦)に数球(多くて10球)しかフォークボールを投げなかったという、杉 […] 続きを読む
杉下茂がフォークを多投しなかったのは味方からのクレームが原因だった! 野球 “打撃の神様”と称されていた川上哲治選手をして「捕手が捕れないのに打てる訳がない」と言わしめるほど、大きな落差のフォークボールを自ら編み出したという、杉下茂(すぎした しげる)さんですが、今回は、 […] 続きを読む
杉下茂の落差のあるフォークボールは川上哲治も打てなかった! 野球 プロ入り3年目の1951年2月下旬、サンフランシスコ・シールズのキャンプで、ほぼ直角に落ちるフォークボールを編み出したという、杉下茂(すぎした しげる)さんは、帰国後、シーズンで、”打撃の神様”と […] 続きを読む
杉下茂はプロ3年目の米キャンプで無回転フォークを編み出していた! 野球 明治大学卒業間際に、帝京商業学校時代の監督で明治大学では技術顧問だった天知俊一さんにフォークボールの存在聞き、試行錯誤の末、フォークボールを会得するも、プロ入りして最初の2年間は、タイミングを外す程度の使い方しかせず、多 […] 続きを読む
杉下茂はフォークボールで中日入団2年目から27勝していた! 野球 帝京商業学校時代の監督で、明治大学では技術顧問だった天知俊一さんにフォークボールの存在を聞き、試行錯誤の末、投げ方を会得するも、試合で初めてフォークを投げた際、当たり損ないながらヒットになったことから、縁起が悪いと、以来 […] 続きを読む