大学在学中、8ミリで自主制作映画を発表されていた、映画監督の大林宣彦(おおばやし のぶひこ)さん。その後、尾道三部作といわれる、「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」が大ヒットを記録し、映画ファンを熱狂させました。
プロフィール!
大林さんは、1938年1月9日生まれ、
広島県尾道市のご出身です。
血液型はB型、
学歴は、
成城大学文芸学部中退、
だそうです♪
映画への道
大林さんは、2歳の時から、
ブリキでできた、おもちゃの映写機で、
遊んでいたそうで、
6歳になると、フィルムに直接絵を描いて、
アニメーションを作られるなど、幼い頃から、
映画制作に夢中になられていたそうです。
そして、1955年、高校卒業後は、
上京して浪人生活を送られ、
翌年の1956年、
大学の芸術コース映画科に、
無事合格されています。
ちなみに、大林さんは、当時、
フランスの詩人ボードレールに憧れており、
ボードレールは大のお酒好きで、
作品の中にも、お酒の話題が多く登場しています。
入学試験中、ポケットから、
ウィスキーの小瓶を取り出して、
飲みながら答案を書いていたところ、
試験官の教員から、
「良き香りがいたしますな」
と、言われ、
「先生も一献いかがですか」
と、勧めると、その教員も、
「頂戴いたしましょう」
と、応じられたのだとか!
そこで、大林さんは、試験中に、
試験官とお酒を飲み交わすことになったというから、
今では考えられない、とても粋な話ですね。
大学在学中に8ミリで映画制作
こうして、大学に入学された大林さんは、
講義には全く出席せず、
赤いスカーフを首に巻き、
8ミリカメラを片手に持って、
一日中、グランドピアノでシャンソンを弾きながら、
聴きにくる女子学生たちを、
1コマづつ撮影されていたそうで、
1957年(大学在学中)には、
福永武彦の詩集を映画化した「青春・雲」を、
文化祭のために制作、発表。
1958年(大学在学中)にも、
2作目「絵の中の少女」を発表されるなど、
8ミリで次々と作品を制作、発表。
そして、1960年には、
ついに、大学を中退されたのでした。
1961年頃の大林さん。
その後は、8ミリで制作した作品を、
何度か、アマチュアコンテストに、
応募されるも、全て落選。
当時のアマチュア映画は、
絵はがきのような風景をいかに美しく撮るか
ということが重んじられていたようで、
大林さんのような個性的な作品が、
入賞することはなかったのでした。
飯村隆彦、高林陽一との出会い
そんな折、大林さんは、
雑誌、月刊「小型映画」の編集長のはからいで、
大林さん同様、8ミリで映画を制作されていた、
飯村隆彦さん、高林陽一さんと出会います。
実は、この編集長は、
「いつも落選ばかりしている、
個性的な応募者を会わせたら面白いのではないだろうか」
と、3人を会わせることを、
考えられたのだそうですが、
思惑どおり、大林さんは、
飯村さん、高林さんと、たちまち意気投合。
やがて、自分たちの自主制作映画を、
映画館で有料公開することを思いつき、
(当時は、まだ、自主制作映画という概念がなく、
大林さんたちが、自主制作映画の第一人者となったのでした。)
自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと、
画廊で映画を上演されると、この試みは大成功!
その後、より大きな映画館で、
上演するようになったため、
8ミリから16ミリに転換されると、
1964年には、
初の16ミリ作品「喰べた人」で、
「ベルギー国際実験映画祭」
審査員特別賞を受賞。
「喰べた人」
翌年の1965年には、
飯村さん、高橋さんのほか、石崎浩一郎さん、佐藤重臣さん、
ドナルド・リチ-さんらと、実験映画製作上映グループ
「フィルム・アンデパンダン」を結成されると、
新宿紀伊國屋ホールで、
「Complexe=微熱の玻瑠あるいは
悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道」
を上演し、話題となっています。
CMディレクターとして
また、大林さんは、
「Complexe=微熱の玻瑠あるいは
悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道」
を観た、電通のプロデューサーに誘われ、
CMディレクターとしての活動も開始。
実は、当時のCMは、まだ、
「おトイレタイム」くらいの認識しかなく、
電通のプロデューサーと、
勢いをなくした映画界のカメラマンとが組んで、
CMを撮っていたそうで、
このような状況では、
スポンサーと対等なはずはなく、
演出家なら、スポンサーと対等に渡り合えるのでは、
と考えた電通が、大林さんを、
CMディレクターに依頼したのでした。
(大林さんの仲間たちも、誘いを受けたそうですが、
CMディレクターを専門にやろうという人は一人もおらず、
承諾したのは大林さんだけだったとか。)
そして、実際に、
コマーシャル制作にかかると、
フォーマットが全然なかったことから、
演出は全て任せてもらえたうえ、
高度経済成長の始まりとともに、
テレビが普及したことで、企業が広告費をどんどん出し、
特撮も自由にたくさん撮ることができたそうで、
大林さんにとって、CM制作は、
とても楽しい仕事だったそうです。
こうして、大林さんは、ハリウッド俳優、
チャールズ・ブロンソンさんを起用した「マンダム」
山口百恵さんと三浦友和さんが、
コンビを組んだ、「グリコ」
などを手がけられると、
商品は大ヒット。
当時、まだ売れていなかった、
チャールズ。ブロンソンさんも、
たちまち日本で有名になったのでした。
映画「HOUSE」
そんな大林さんは、1977年には、
映画「HOUSE」で商業映画に進出。
この作品は、様々な特撮を使い、
7人の少女たちが、生き物のような「家」
に食べられてしまうというホラー・ファンタジーなのですが、
批評家からは、
「お前が日本映画をダメにした」
と言われ、酷評されてしまうものの、
華麗でポップな映像美は、
一部の映画ファンを熱狂させたのでした。
「HOUSE」
(その後、2009年頃からは、
欧米でも、その良さが再確認され、
今もなお、コアな人気を博しています。)
尾道三部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」
そして、
1982年には「転校生」
1983年には「時をかける少女」
「時をかける少女」より。原田知世さん。
1985年には「さびしんぼう」
「さびしんぼう」より。富田靖子さんと尾美としのりさん。
と、地元「尾道」を舞台とした映画を発表されると、
多くの熱狂的なファンを獲得されます。
出身地とはいえ、1人の映画作家が、
長きに渡り、ひとつの街に愛情を注ぎ、
作品を発表し続けることは大変珍しく、
世界をみても、他に例がないそうですが、
大林さんは、このことについて
「ふるさとが壊されることを守るための戦いだった」
と、明かされており、
故郷の懐かしい風景を撮り、
その良さを人々に伝えることで、
ふるさとを守ろうとされていたとのこと。
実際、この3作品は、
大林さんのファンからは「尾道三部作」と呼ばれ、
現在でも高い人気を誇っているうえ、
ロケ地めぐりのファンも多いそうなので、
大林さんの思惑通り、
尾道を守る大きな力になったようですね。
新作は?
以降、大林さんは、
アイドルが主人公の映画を制作されたり、
純文学を映画化されたりと、
様々なジャンルの映画を発表されるのですが、
2000年以降は、
大分、長野、新潟、北海道芦別など、
その街の伝統や歴史を題材にした作品を撮り続けられ、
2017年秋には、佐賀県唐津が舞台となる
「花筐(はなかたみ)」が公開を控えています。
「花筐」制作発表より。左端が大林さん。その隣は、満島真之介さん。
実は、この作品は、40年前、
大林さんがデビュー作にしたいと、
考えられていたそうですが、
原作者の檀一雄さんが亡くなり、
話が立ち消えとなっていたとのことで、
今回、40年ぶりの復活に、
企画して(実現に)40年もたったが、
これも天命でしょう。
穏やかな日のありがたさを伝える映画を今こそつくりたい。
と、大林さんは意気込みを語っておられました。
さて、いかがでしたでしょうか?
それまで、誰も思いつかなかった映画やCMを、
次々と発表され、日本の映像史を切り拓いてこられた、
「映像の魔術師」大林さん。
当初の個性的な映画もいいですが、
近年の、日本の古き良き時代をほうふつとさせるような、
美しい風景の映画もまたいいですね。
もうすぐ80歳というご高齢ですが、
お体には十分に気をつけて、
これからも、心が穏やかになるような、
世界に誇れる日本映画を作ってほしいですね。
応援しています!!