中学・高校時代、テニスの素質を見せるも、なかなか大きく羽ばたくことができなかった、松岡修造(まつおか しゅうぞう)さん。そんな中、世界的名コーチのボブ・ブレットさんと運命的な出会いを果たし、プロへの道を目指されます。


「落ちこぼれだった?~ウィンブルドンジュニアに出場~」の続き

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ボブ・ブレットと運命の出会い

そんなある日のこと、松岡さんは、
「桜田倶楽部」の飯田監督から、

世界的名コーチのボブ・ブレットが来日するらしいので、
自分が何とか段取りをつけるから、練習を見てもらわないか?

と、声をかけられます。

というのも、ボブ・ブレットさんは、
松岡さんがヨーロッパ遠征時の、
「全仏オープンジュニア」でのプレーを、

偶然通りかかって見ておられたそうで、
その場にいた日本人カメラマンの田沼武男さんに、

「この子、なかなか面白いかもしれない」

と、話しかけられたというのです。

そこで、田沼さんが、そのことを、
旧知の間柄であった飯田さんに伝えられると、

飯田さんは、来日するブレットさんに、
松岡さんの練習をみてもらおうと考えられたのでした。

当時のボブ・ブレットさん。
(テロップはブレッドとなっていますが、
 Bob Brettなので、正しくは、ブレットです。)

そして、松岡さんは、
ブレットさんに練習を見てもらい、その後、
30分ほど打ち合いもされるのですが・・・

なんと、終わると、握手をしながら、

「明日、アメリカへ帰る。サヨナラ」

とだけ言い残され、

ブレットさんは、
アメリカに帰ってしまったのでした。

ブレットからの伝言

当然、何らかのアドバイスをもらえるものと、
期待していた松岡さんは、がっかりされたそうですが、

その翌日、田沼さんから、
1本の電話がかかってきます。

実は、田沼さんは、空港まで、
ブレットさんを送られたのですが、

その時、ブレットさんから、
松岡さん宛のメッセージをことづかっておられたそうで、

松岡さんは、田沼さんから、

修造、ボブからの伝言だ。明日にでもアメリカに来い。
日本に居たら強くなれないよだって。

やっぱり君の力を認めてくれたんだよ。
よかったな・・・

と聞いたのでした。

アメリカ行きを決意

松岡さんはこれを聞いても、
にわかには信じられず、
しばらくは絶句されていたそうですが、

ブレットがそう言ってくれるのなら、
本当に明日にでもアメリカへ行こう。

と、アメリカ行きを決意。

反対するお母さんを泣きながら説得し、

アメリカで高校に通い、
卒業後は現地の大学に進学する、
という条件で、お母さんを納得させると、

柳川高校を中退後、1985年11月、
単身、アメリカへ渡られたのでした。

単身渡米、プロの大会に出場

こうして、渡米された松岡さんは、
「パーマー・アカデミー・ハイスクール」に通いながら、
「ハリーホップマン・テニス・キャンプ」に参加し、
ブレットさんに練習を見てもらうように。

そして、翌年の1986年、ハイスクールを卒業し、
奨学金でアメリカの大学に進学しようとしていた矢先、

ブレットさんから、

腕試しにプロの試合に出てはどうか。

と、言葉をかけられます。

ただ、この提案に、松岡さんは、
自分がプロの試合で勝てるはずがないと、
尻込みされると、

ブレットさんから、

つまらない恐怖心を持つな!
人間には思いもよらない能力がある。

5年間頑張ってみろ。運がよけりゃ、
シュウゾーは世界100位内に入る力がある。

と、叱咤激励を受けたそうで、
松岡さんは、プロ大会への出場を決意。

プロへ

すると、大会では、
自身の予想に反し、好成績を収められ、

松岡さん同様、驚いたブレットさんから、
大学へ進学せずに、プロになることを勧められます。

ただ、松岡さんにとっては、
大学進学が条件の渡米だったため、

すぐには答えることができず、
かなり悩まれたそうですが、
最終的には、プロになることを決意。

反対するお母さんを説き伏せ、
ついに、プロになられたのでした。

困窮の中、世界転戦

こうしてプロとなった松岡さんですが、
学生時代とは違い、お父さんも、
資金援助をしてくれなくなったため、
お金の面で苦労されたそうです。

幸い1ヶ月ほどで、あるマネージメント会社と、
契約を結ぶことができ、1年に300万円の、
活動資金を提供してもらうことになるのですが、

航空費、移動費、宿泊費なども、
すべてこの資金から捻出しなければならず、
松岡さんは、困窮の中、世界を転戦されたそうで、

予算を切り詰めるため、
宿泊するのは3流以下の安モーテル。

さらに、その部屋を、知り合った外国人選手と、
折半してシェアされるのですが、

松岡さんはランキングが下だったため、
いつも汚い床の上で寝ていたのだとか。

そして、ひどい時には、食事にも困り、
ホテルの朝食に出たクロワッサンを、
隣のテーブルから盗んで食べたこともあったのだそうです。

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練習相手がいない日々

また、困難はお金の面だけではなく、
アジアから来た無名の選手でしかなかった松岡さんには、
練習相手になってくれる選手はほとんどいなかったそうで、

一人で壁打ちしている選手に、
必死の思いで頭を下げて願い出ても、

ほとんど受けてくれる人はおらず、
時には侮蔑の目で拒絶されることすらあったとか。

それでも、空いているコートを見つけては、
他の選手が来るまで、黙々と練習を続けられ、

たまたま誰かが、
練習相手になってくれた時には、

150%の力を出し切るぐらいの気持ちで
練習に臨まれていると、

やがて、その質の高い練習が評判となり、
練習相手として受け入れられていくと同時に、

松岡さんのレベルも、次第に、
上がっていったのでした。

「世界ランキングトップ100位入り~日本男子シングルスの記録更新へ~」に続く

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