力道山さんが他界し、豊登道春さんが「日本プロレス」の社長に就任したことで、「日本プロレス」を辞めずに、念願の海外武者修行が実現し、着実に実力をつけていた、アントニオ猪木(アントニオ いのき)さんは、その後、豊登さんに誘われ、「日本プロレス」を辞めて、「東京プロレス」に参加するのですが・・・

「アントニオ猪木が若い頃はアメリカで武者修行していた!」からの続き

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「日本プロレス」を追放された豊登道春から「東京プロレス」入りを誘われる

猪木さんが、海外修行を始めて2年程経った1966年3月10日、ジャイアント馬場さんや吉村道明さんらと共に合同練習をするため、ハワイに移動していた際、突然、豊登道春さんが猪木さんを訪ねてきたそうですが、

実は、豊登さんは、「日本プロレス」の新社長となった後、会社の資金を横領して、競馬・競輪などのギャンブルに流用し、多額の負債を抱えたことから「日本プロレス」を追放されており、

その後、新団体「東京プロレス」を旗揚しようと、かねてから面識のあった、新間寿さん(元日本プロレス道場のボディビル練習生)に声をかけて、(住職で資金力があった)お父さんの新間信雄さんに協力を要請すると、

「日本プロレス」からは、自身を慕う、田中忠治さん、木村政雄(ラッシャー木村)さん、斎藤昌典(マサ斎藤)さん、北沢幹之(後のリングス レフェリー)さんらを引き抜いており、

今度は、新人時代から目をかけていた猪木さんも、引き抜こうと声をかけに来たのでした。

「日本プロレス」を退団し「東京プロレス」入り

こうして、猪木さんは、豊登さんに、

「日本プロレス」に帰っても、一生、馬場の上には行けん

と、新団体「東京プロレス」入りを口説かれると、

かねてより、「日本プロレス」の自身への待遇が、ライバルのジャイアント馬場さんと比べて悪いと感じ、不満と不信感を抱いていた猪木さんは、

(海外修行中にも「日本プロレス」からは何も連絡がなかったそうです)

この誘いに乗り、「東京プロレス」入りを決意。

1966年3月21日には、「日本プロレス」に国際電話で退団することを伝えると、同年4月23日、豊登さんとともに日本に帰国したのでした。


当時の猪木さん(左)と豊登さん(右)。

豊登道春と決別

その後、猪木さんは、1966年10月、蔵前国技館で開催された旗揚げ戦で、ジョニー・バレンタインとの一騎打ちに勝利を収め、華々しいスタートを切るのですが・・・

最終戦まで全34戦の予定だった「旗揚げビッグマッチ・シリーズ」は、「日本プロレス」の妨害で、有力プロモーターの協力が得られず、中止とキャンセルが相次ぎ、結局は、20戦しか行うことができず、赤字の連続。

しかも、このような経営状況下でも、豊登さんの横領とギャンブル浪費癖は治らなかったそうで、ついに猪木さんは、「旗揚げビッグマッチ・シリーズ」終了直後、豊登さんとの決別を決意。

当時、新宿にあった「東京プロレス」の事務所から、荷物と書類を持ち出して、新事務所を北青山に移すと、別会社の「東京プロレス株式会社」を設立したのでした。

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「東京プロレス」はわずか3ヶ月で崩壊

そして、翌年の1967年には、「東京プロレス」のメンバーだった、木村政雄さん、斎藤昌典さんらとともに、1月5日から開幕した「国際プロレス」との合同興行「パイオニア・シリーズ」に参加すると、シリーズの最中である1月8日、豊登さんと新間さん父子を、「業務上横領」で告訴したのでした。

しかし、豊登さんと新間さん父子はというと、逆に、猪木さんを「背任容疑」で告訴するという泥仕合に発展。

また、そんな中で行われたシリーズも、当然ながら振るわず、さらには、「国際プロレス」と金銭面でトラブルを起こし、「東京プロレス」は、わずか3ケ月で、事実上、崩壊してしまったのでした。

「アントニオ猪木は昔ジャイアント馬場と「BI砲」で共闘していた!」に続く


「国際プロレス」「東京プロレス」合同興行で、エディ・グラハム(右)と戦う猪木さん(左)。

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