ロカビリー歌手として人気を博すも、早々にロカビリーに見切りをつけて、ジャズに転身された、ミッキー・カーチスさんは、その後、タレント、俳優としても人気を博すのですが、1960年代後半には、世界を舞台に音楽活動を展開します。

「ミッキーカーチスの若い頃はロカビリ歌手!雪村いづみと恋の片道切符?」からの続き

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岡本喜八監督の常連俳優として

こうして、歌手として活躍されていたミッキーさんですが、そのかたわら、日本の家庭にテレビが普及し始めた1959年頃からは、テレビ歌番組「ザ・ヒットパレード」の司会や、各局の音楽バラエティ番組にも出演されるようになり、人気タレントとしても活躍。


「ザ・ヒットパレード」より。ミッキーさんと「ザ・ピーナッツ」。

また、1958年には、岡本喜八監督に誘われて、「結婚のすべて」で映画デビューも果たされると、

この映画では、「舞台から客席に手をふる」という程度の、ほとんどセリフがない役だったのですが、同年、映画「若い娘たち」に出演された際、岡本監督から、

本気で役者をやってみないか

と、誘われたそうで、

当初は、朝が苦手なミッキーさんは、朝早くから撮影がある俳優という仕事は真っ平御免と、断ろうとしたそうですが、お母さんから、

ミュージシャンは年取ったら声が出なくなったり、パワーがなくなったりするけど、俳優は年とっても役があるのよ。

と、言われて、その気になったそうで、

その後も、

1959年「野火」
     「独立愚連隊」(岡本監督)
     「青春を賭けろ」


「野火」より。ミッキーさんと船越英二さん。

1960年「落語天国紳士録」
     「サラリーマン出世太閤記・完結編花婿部長NO.1」
     「大学の山賊たち」(岡本監督)
     「姉さん女房」
     「暗黒街の対決」(岡本監督)
     「駄々っ子亭主 続姉さん女房」
     「独立愚連隊西へ」(岡本監督)
     「僕は独身社員」


「大学の山賊たち」


「姉さん女房」より。ミッキーさんと淡路恵子さん。

1961年「サラリーマン奥様心得帖」
     「暗黒街の弾痕」(岡本監督)
     「顔役暁に死す」(岡本監督)
     「うるさい妹たち」
     「猫と鰹節」
1962年「山河あり」
     「どぶ鼠作戦」(岡本監督)

と、立て続けに映画に出演されると、あれよあれよと、俳優としても人気を博したのでした。

ちなみに、ミッキーさんは、岡本作品には欠かせない存在となっていたのですが、岡本監督は、

ミッキーは(売れっ子になって)忙しくなって、なかなか俺の写真(映画)に出てもらえなくなったよ。

と、こぼしていたことがあったそうで、当時のミッキーさんの売れっ子ぶりが伝わってきます。

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「ミッキーカーチス&サムライ」がヨーロッパで人気

また、1961年6月には、本格的なジャズ志向バンド「シティ・クロウズ」結成されると、ラウンジ・ジャズなどを演奏し、アルバムを発表するなど、精力的に音楽活動もこなし、1966年には、さらに、ラウンジ・ジャズに特化したバンド「ヴァンガーズ」を結成。

ホテルのラウンジやナイトクラブをメインに活動するようになると、「ヒルトン・ホテル東京」を拠点としていたことから、香港やタイのバンコクのヒルトン・ホテルでもハウス・バンドとして出演するようになり、バンコクに1年ほど滞在して演奏活動を行われます。

そして、このタイ滞在期間に、フランス人プロモーターから、ヨーロッパ巡業のオファーを受けると、1967年に、一旦、帰国し、「ヴァンガーズ」のドラマー、原田裕臣さんと共に、バンドを再編。

ヨーロッパ受けを狙って、「ミッキーカーチス&サムライ」に改名し、ヨーロッパに渡られると、フランス、イタリア、ドイツ、イギリスのカジノやナイトクラブ、ホテルのラウンジ、ライヴハウスなどで、チョンマゲに着物姿で各国のヒット曲ほか、日本の童謡や民謡をロック・アレンジで演奏し、現地で大好評を博したのでした。

ちなみに、ミッキーさんは、当時のインタビューで、

ヨーロッパのクラブなどでは、エリック・クラプトンそっくりに弾けるギタリストが居るバンドなんかには興味は無くて、俺たちを歓迎してくれた。他には無いオリジナルな存在だったから。

と、語っておられ、現地での人気に気を良くしたのか、ヨーロッパでシングル2枚、アルバム1枚をリリースされています。


こうして、ミッキーさんは、1年にわたる巡業を終えて、1970年に帰国すると、翌年の1971年には、アルバム「河童」をリリースし、日比谷野音のロック・イベントなどに出演するなど、音楽活動を続けられるのですが、


河童

ヨーロッパに比べ、あまりにも遅れていた日本のロックシーンの中での活動は、次第に行き詰まるようになり、帰国後1年ほどで「ミッキーカーチス&サムライ」は解散。

その後、ミッキーさんは、日本初のフリーランスの音楽プロデューサーとして、数多くのミュージシャンを手がけるようになっていかれたのでした。

「ミッキーカーチスが若い頃は矢沢永吉をプロデュース!娘の矢沢洋子も?」に続く

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