1968年、主演映画「不信のとき」の宣伝用ポスターの名前の序列を巡って「大映」とトラブルになったことが原因で、「大映」を解雇された、田宮二郎(たみや じろう)さんですが、歌の営業など、地方巡業で糊口をしのぐ中、テレビ時代が到来。再び、田宮さんに運が巡ってきます。

「田宮二郎は人気絶頂のなか干されていた!その理由とは?」からの続き

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映画だけでなくテレビ業界からも追放される

1968年、主演映画「不信のとき」の宣伝用ポスターの名前の序列を巡って「大映」に不満をぶつけ、社長・永田雅一氏の逆鱗に触れて、契約期間を残したまま、「大映」を解雇された田宮さんですが、

永田さんがこのことで記者会見を開いた際、記者から、

田宮を辞めさせて興行的に困らないか

と、質問されたことで、

失礼な、それほどの大物じゃない

と反論し、さらには、「五社協定」を持ち出し、映画にもテレビにも田宮さんを使わないように通達したことで、田宮さんは、映画だけでなく、テレビの仕事も干されてしまいます。


永田雅一氏。

(ただ、この田宮さんの解雇で、貴重な看板スターを失った「大映」はますます経営難となりました)

ナイトクラブやキャバレー等の地方巡業で生計を立てる

こうして、俳優として、映画からもテレビからも干されてしまった田宮さんは、

息子の柴田光太郎さんいわく、

僕が3,4,5歳ぐらいの時だと思いますけど、その時はやっぱり家は一番楽しかったですね。父親の記憶というと僕の中では、そこの3年ぐらいが一番いい形で残っているんですよ。

なんでパパ仕事行かないのって、そんなにあまり考えた事もなくて、家にいる人なんだなと思って、いつも遊んでくれる人なんだなと思って…。

と、家族との時間を大切にされるも、

やがて、奥さんと二人の息子さんに貧乏な思いはさせたくないと、司会、舞台俳優、歌手として、ナイトクラブやキャバレー回りなどの地方巡業をこなし、休む間もなく働きます。

「クイズタイムショック」の司会で再ブレイク

すると、1969年、新しく放送がスタートするテレビ番組「クイズタイムショック」の司会の仕事が舞い込み、これを引き受けられると、

軽快で巧みな話術ながら丁寧な言葉づかい、スムーズな司会進行、一般人解答者に対する気遣いなどから、視聴者の好感を呼び、最高視聴率29%という大ヒットを記録。


「クイズタイムショック」より。

田宮さんは、多くの映画でみせた、クールな表情から一転、ソフトなキャラクターというギャップもウケて、見事、司会者として再ブレイクを果たしたのでした。

(田宮さんは、同年、音楽番組「田宮二郎ショー」の司会も務められています)

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映画からテレビの時代へ

ちなみに、田宮さんと親交のあった美輪明宏さんは、

テレビに出るっていうことは3流・4流で、映画界で使い物にならなかった連中が出るものでね。ちゃんとした大俳優がテレビなんか出ちゃいけない、みたいな風潮が最初あったんですよ。

それでやっぱり切り替えて、テレビの方に行くっていうのは、よほどの性根が座ってないとできませんでしたしね。今みたいにDVDであるとかビデオとかね、発達しておりませんでしたから、生がほとんどだったんです。

そうすると、生で通用するっていうのは、やっぱりウィットに富んでて回転が良くてね、機知に富んでないと。もし穴が開いたらそれを埋めるっていうのが大変な仕事ですから。

ですから、吾郎ちゃんは、田宮さんはよく本読んでましたからね。語彙が豊富なんですよ。ものすごいインテリでしたからね。

と、おっしゃっているのですが、

当時、すでに一般家庭へのテレビの普及率は100%に近く、カラーテレビの普及も進んでいたことから、やがて、ほかの映画俳優もテレビに出演するようになるなど、時代は映画からテレビへと移行しており、

そんなテレビ時代の到来に背中を押されるように、司会者としての田宮さんの姿は、視聴者に大きなインパクトを与えたのでした。

「田宮二郎は白いシリーズでTVスターになるも現場では孤立していた!」に続く

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