長年、悪役で名をはせると、近年は、善人の役もされるようになった、八名信夫(やな のぶお)さん。今回は、そんな八名さんの生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

八名さんは、1935年8月19日生まれ、
岡山県岡山市のご出身、

身長182センチ、
体重68キロ、

血液型はB型、

学歴は、
岡山市立出石小学校
⇒岡山県立岡山東商業高校
⇒明治大学中退

趣味は、
マフラー、帽子、時計などのショッピング、

ちなみに、「八名 信夫」は本名です。

生い立ち

八名さんは、国鉄(現・JR西日本)岡山駅の助役をされていたお父さん・亀億(ひさお)さんのもと、3人兄弟(兄と姉)の末っ子として誕生すると、子どもの頃は、駅員の官舎に住んでいたことから、いつも蒸気機関車の音が、ドンドン、ドンドン、と響き、ゆっくり寝られなかったそうです。

そして、その後、1941年(八名さん6歳)に太平洋戦争が始まると、1944年(八名さん9歳)には、連日のように、国内の主要都市が空襲を受けるようになり、八名さん一家が住む岡山市の上空にも、米軍の「B29」爆撃機が、何度も来るようになったそうです。

ただ、実際の爆撃はなく、授業中に空襲警報が鳴って集団下校し、解除となったら学校に行く、という毎日だったそうです。

(ルーズベルト米大統領やチャールズ英首相のわら人形を、竹やりで突く練習も校庭でさせられていたそうです。)

空襲で命からがら逃げ出す

しかし、1945年6月29日、午前2時過ぎ、八名さんが、両親とお姉さんの4人で一緒に寝ていると、

(8歳年上のお兄さんは、旧制明石中学(現・兵庫県立明石高校)に通っていたため、明石市内の親戚の家に下宿していて不在だったそうです)

突然、ボーンと地響きがして、吊ってあった蚊帳が全部落ち、

飛び起きたお父さんが、

逃げろー! 空襲だー!

手つないで逃げろー!

と、叫んだそうで、

八名さんも慌てて飛び起きると、窓の外はすでに真っ赤な火の海。

すると、お母さんが、とっさに畳を起こし、官舎の床下に掘ってあった4畳ほどの広さの防空壕(ぼうくうごう)に入ろうとしたそうですが、

お父さんが、

そんなことやるな

とにかく外へ逃げろ

と、怒鳴ったため、一家は外に飛び出したのだそうです。

(ちなみに、八名さんは、後に、防空壕に逃避した人たちの多くが、降り注いだ焼夷弾(しょういだん)の炎で蒸し焼きとなって死んだことを知ったそうで、お父さんは、東京や大阪の空襲の状況を知っていたのかもしれないと、おっしゃっていました。)

悲惨な光景を目の当たりに

こうして、八名さんは、お母さんに手を強く引っ張られ、表に飛び出すと、周りの家々は炎に包まれ、屋根からは焼夷弾の油が垂れ落ち、そのせいで真っ黒な煙が立ち込めていたそうで、

視界がよく見えない中、崩れ落ちた前の家からは、同級生の女の子が這い出してきて、その背中からは、煙のようなものがモウモウと立ち上っていたのが見えたそうですが(焼夷弾を浴びて背中が燃えていたのかもしれません)、

炎と煙で周囲がよく見えず、お母さんに手を引っ張られていた八名さんは、逃げる時にその女の子を踏んでしまったかもしれず、かといって何もできず、その子を見捨てて逃げたそうです。

また、逃げる途中には、(おそらく)駅長さんのところの小学生くらいの女の子が2人、濡れ雑巾を先につけた竹竿を手に持ち、軒下から吹き出す炎を叩いて消そうとしており、

それを見た、八名さんのお父さんが、

そんなことをやっとる場合じゃねえだろうがあ。早よぉ逃げえ!!

と、叫ぶなど、今でも忘れならない光景を目の当たりにしたのだそうです。

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父親は家族と別れて職場へ行き離ればなれに

そんな中、お父さんは、

わしゃあ、駅へ行くから、お前らは(岡山)後楽園のほうへ逃げえ

と、言うやいなや、駅に向かってしまったそうで、

八名さん、お母さん、お姉さんは、とにかく逃げなければと、後楽園へ向かったそうですが、

八名さんは、当時を振り返り、

「父親の守るものは家族よりも汽車だったのか」と、今、冷静になって考えてみると、少し腹も立ちますが、その当時は、そんな父親を尊敬していました。自分の仕事に対して責任感を持っていたのだと思いますね。

と、語っておられました。

「八名信夫は父親が映画と芝居の劇場を経営していた!」に続く

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