「日活」に移籍して商業主義的な大作に次々と出演し、見事、「剣戟王・阪妻」として、復活を遂げた、阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんですが、そんな中、思いもよらないオファーが舞い込みます。

「阪東妻三郎は甲高い声だった?トーキーで低迷も日活で復活!」からの続き

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稲垣浩監督から「無法松の一生」のオファー

日本映画が「サイレント」から「トーキー」へと移リ変わったことで、一旦は人気が低迷するも、裸一貫で「日活」に移籍すると、「剣戟王・阪妻」として、見事復活を遂げた阪東さんですが、そんな中、稲垣浩監督から「無法松の一生」のオファーを受けます。

実は、阪東さんは、1937年、「飛龍の剣」で、稲垣浩監督と初めて知り合うと、翌年1938年にも、稲垣監督の「地獄の蟲」に出演されているのですが、

その際、稲垣監督は、まだ白塗りのメイクが当たり前だった当時において、本物のヒゲを生やすなど、よりリアルに見せるため、熱心に役作りをしていた阪東さんを見て、

このとき初めて阪東妻三郎という人の映画に懸ける意気込みと情熱を感じた。そのときから、この人に意欲を燃やし期待を持ちはじめたのだった。

と、阪東さんに期待を寄せていたのでした。

稲垣浩監督とは仕事を超えた絆

また、「地獄の蟲」は、検閲から保留処分を受けたことから、会社からは、改編してでも封切ることを指示されたそうで、

稲垣監督は、一旦は、スタッフや俳優たちの意気込みとともに作り上げた作品(フィルム)にハサミを入れることを拒むも、最終的には会社の指示に従わざるを得ず、作家としてのプライドと会社との間でジレンマに陥ったそうですが、

(※検閲とは、国家など公の機関が思想内容や表現を強権的に取り調べることで、当時の「表現の自由」は、あくまで法律の範囲内でのみ許されていました)

そんな時も、稲垣監督は、

クサルことはないですよ。僕らはとにかくりっぱな作品をつくった。それをこの目で見たのだ。それを大衆に見せなかったのは僕らのせいじゃない。

と、阪東さんに慰められたそうで、大いに勇気づけられたというのです。


「地獄の蟲」より。右が阪東さん。

当初はオファーを断っていた

そんな経緯があったことから、稲垣監督は阪東さんに、「無法松の一生」のオファーを出したのですが、阪東さんは、当初、断られたそうです。

というのも、「軍国主義」色の濃い当時、この「無法松の一生」は、非国民と呼ばれかねない内容の映画だったのです。(実際、脚本の段階から検閲に削除命令を出されていた)

また、阪東さんにオファーがあった、主人公・富島松五郎役は、当時、低迷期を乗り越え、「阪妻の前に阪妻はなく、阪妻の後に阪妻はなし」とうたわれるまでに確立した、「剣戟王」のイメージとはかけ離れており、

うまくいけば、新境地を開拓できるものの、失敗すれば、また、スターの地位から転落してしまうかもしれない、いわば賭けのようなオファーだったのです。

(当時は「軍国主義」色の濃い時代だったため、国全体がこぞって戦意を鼓舞し、英雄を求めていた時代で、映画界もその影響を受け、阪東さん自身も、1942年、映画「将軍と参謀と兵」で風格のある将軍を演じたばかりでした)


「将軍と参謀と兵」より。中央が阪東さん。

命を賭けてオファーを引き受ける

しかし、稲垣監督は、「サイレント」から「トーキー」へと移り変わる時期に、阪東さんとともに仕事をしたことで、阪東さんの苦悩・苦闘する姿を間近で見て、その追求心に心を打たれていたため、「無法松の一生」の主人公・富島松五郎役は、阪東さんでなければならないと、再三オファー。

すると、ついに、阪東さんは、

命を賭けてやるつもりか

と、聞いてきたそうで、

稲垣監督が、「そうだ」と答えると、

よろしい。私も命を張ろう

と、出演に応じたのでした。

ちなみに、後に稲垣監督は、

あるとき妻さん(阪東さん)は、“僕らは親友などというケチなつきあいでなくいこう”と、不思議なことを言い出した

と、阪東さんから声をかけられたことを明かしているのですが、

それまで、人の裏切りに遭い、栄光と挫折を両方とも体験してきた阪東さんには、独自の人生観があったのだと、回想されています。

権力への反骨精神

また、映画監督の伊藤大輔さんも、阪東さんが「無法松の一生」に出演されたことについて、

下回りの時代を長くやっておったことと関係があると私は思うのだが、一言にしていえば反権力。体制、オカミのいうことは一から十までまちがっているという、きわめてアナーキーなものの考えを、生涯くずさなかった。

戦争中のことです、映画は丙種産業ですから片っ端から徴用で引っ張られていったのです、監督も俳優も。私などまで試験場に行ってこれは幸い逃れました、ところが、あの人はついに試験場にも行かなかった。

“阪東妻三郎がお役に立たなくて、田村伝吉(本名)が国家の御用になるのならば、勝手にしてもらおうじゃないか”と、ガンとして呼び出しに応じなかった。文士も学者も国策に媚びていた時代に、お役者一匹の意地を張り通してゆずらなかった。

と、阪東さんが戦時下、一貫して、慰問や徴用の命令に対して一切応じなかった態度に、感銘を受けられているのですが、

貧しい人々に寄り添う気持ちが根底にあり、権力への反抗精神があった阪東さんは、この「無法松の一生」が脚本の段階から検閲に削除命令を受けたことを知って、より役人たちへの反骨精神がむくむくと湧き上がってきたのでは、と語っておられました。

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「無法松の一生」が代表作に

さて、「無法松の一生」の主人公である、俥夫(しゃふ=人力車を引く人)・富島松五郎役のオファーを引き受けた阪東さんは、自ら京都駅に行って、実際に俥夫として働いている人たちに話を聞くなど、役作りに打ち込まれたそうで、

1948年、福岡県小倉(現在の北九州市)を舞台に、荒くれ者の俥夫・富島松五郎(通称、無法松)とその亡き友人の遺族との交流を描いた、岩下俊作さんの同名小説を原作とする映画「無法松の一生」が公開されると、

阪東さんの演技は絶賛され、この映画も日本映画界屈指の名作として高く評価されたのでした。

「阪東妻三郎の死因は脳内出血!中耳炎がきっかけだった?」に続く

「無法松の一生」より。阪東さん(左)と園井恵子さん(右)。

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