劇作家の岸田國士さんを父親に、翻訳家の岸田秋子さんを母親に持ち、2人姉妹の次女として育った、岸田今日子(きしだ きょうこ)さんですが、幼い頃は、いつもぼんやりとして、何を考えているのか分からない、内気な子どもだったそうです。

「岸田今日子の従兄弟は岸田森!父親は岸田國士!姉は岸田衿子!」からの続き

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ぼんやりした子どもで心配されていた

劇作家と翻訳家というインテリの両親の間に誕生した岸田さんですが、幼い頃は、社交的なお姉さんとは対称的に、ぼんやりとしていて、いつもお母さんのスカートのすそにつかまっているような内気な子どもだったそうです。

また、そんな岸田さんは、幼稚園にさえ行っていなかったそうですが、「学校なんて早く出たほうがいい」というお父さんの考えのもと、4月生まれを3月生まれとして届けを出され、1年早く小学校に入れられたそうですが、

お父さんの友人の娘が書いた自叙伝の、お父さんが登場する部分にも、

姉のほうはなんとかなるけど、妹のほうはどうも…

と、書かれるくらい、他人からみても、ぼんやりとしていて、何を考えているのか分からず、将来を心配されるような子どもだったそうです。

「宿題」の意味が分からなかった?

そんな岸田さんは、小学2年生の時、算数の時間に先生が黒板に式をいくつか書いて、「はい、これは宿題です」と言ったそうですが、

当時、岸田さんには、宿題というものがどういうものかよく分からず(みんなは自分のノートに黒板に書かれた数字を書き写して帰ったそうですが)、何も書かないで帰ってしまったそうです。

そして、次の日、先生が、昨日の宿題を持ってくるよう言ったため、みんなは先生の前に列を作り、岸田さんもその列の一番後ろに、何も書いていない自分のノートを見ながら、

これでいいのかなあ

と、思って並んでいたそうですが、

だんだん列が短くなると、先生が、みんなのいろいろ数字が書いてあるノートに赤鉛筆で○を書いたり、×を書いたり、数字を書き足したりしているのが見えたそうで、ますます、岸田さんは、本当にこれで良いのかなと、自分のノートを見ながら並んでいたのですが、

ついに、岸田さんの番が来て、何も書いていない真っ白なノートを先生に差し出すと、なんと、先生は、そこに赤鉛筆で大きく○を書いてくれたのだそうです。

それで、岸田さんは、

やっぱりこれで良かったんだ

と、とても安心して、自分の席に戻られたそうですが、

大人になって考えてみると、もしかしてあれは、「○(まる)」ではなくて、「0(ゼロ)」だったのでは、と思ったりもしたそうですが、やはり、あの先生は良い先生に思え、「0(セロ)」ではなく、「○(まる)」だったんだ、と思われたのだそうです。

割り算を理解したことが人生の転機?

また、岸田さんは、割り算について、「数が割れるなんて」と不思議で仕方なく、小学校5年生になっても割り算が出来ずにいたそうです。

ただ、岸田さんが通っていた小学校には通信簿がなかったため、両親は岸田さんが割り算ができないことを知らず、たまりかねた担任の先生がお母さんにその事実を伝えたそうで、お母さんは、唖然としながらも、その後、岸田さんに割り算を教えてくれたそうです。

すると、割り算が理解できるようになった岸田さんは、

割り算ができたから、もう大人になった!

と、思い込み、以降、勉強が理解できるようになったそうで、その後は、自宅の離れにあったお父さんの書斎にこもって、本を読みふけるようになったそうで、

小5から中2にかけて、人生で読む本の3分の1くらいの量をこのとき読んだ。だから「割り算」が、私にとっての人生の転機だったかもしれない(笑)

と、岸田さんは語っておられました。

(特に、「サロメ」という本が、お気に入りだったそうです)


サロメ

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母親の死をきっかけに精神的に自立

そんな岸田さんは、片時もお母さんと離れていられないほど、お母さん子だったそうですが、12歳の時、お母さんが「結核」で他界してしまうと、

いつもつかまっていたスカートが突然なくなり、私はこの世で甘える相手を失ってしまったのです。「これから一人きりで生きていかなきゃならないんだ」と思いました。

と、その後は、誰にも甘えたことがないそうで、

母の残した日記の中に「私の芸術に対する蕾(つぼみ)は、いつか花開く時は来るのだろうか?」という言葉を見つけたが、その言葉はとても重く思えた、その言葉が私の人生をここまで引っ張ってきたようなものだ。

と、同時に、この時から精神的な自立をされたのだそうです。

「岸田今日子の昔は舞台美術見習いで文学座に入っていた!」に続く

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