幼い頃は、いつもお母さんのスカートのすそをつかんでいるような、お母さん子で内気な子どもだった、岸田今日子(きしだ きょうこ)さんですが、12歳の時、お母さんが他界したことをきっかけに精神的自立を決意すると、高校卒業後は、舞台美術見習いとして、「文学座」に研修生として入所。すると・・・

「岸田今日子の幼少期は?内気でぼんやりし小5まで割り算ができなかった!」からの続き

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舞台美術要員として「文学座付属養成所」に入所

12歳の時、お母さんを亡くし、自立を誓った岸田さんですが、まもなく戦争が始まり、お姉さんとともに長野県に疎開。疎開先で、飯田高等女学校に入学し卒業されると、東京に戻り、自由学園高校に入学されます。

ちなみに、この高校、名前とは違い、スパルタ式の学校だったそうですが、美術と音楽だけは独特の教え方をしていたことから、岸田さんは、美術と音楽がとても好きになったそうです。

とはいえ、美術大学や音楽大学に行けるほどの能力はなく、自由学園高校をもうすぐ卒業という頃、自分のことをこれといって取り柄がないと思っていた岸田さんは、進路を決めかねていたそうですが、

ある日のこと、家で、

演劇の好きな若人よ来たれ

という、「文学座」付属養成所の募集チラシを見つけたそうで、

舞台美術のようなことだったら、やってみたらできるかもしれない

と、受験されると、見事、合格。

当初、お父さんには、「文学座」への入所を反対されたそうですが、「女優にならない」という約束で、最終的には入所を許してもらったそうで、

1949年、自由学園高校卒業後は、舞台美術家見習いとして、「文学座」の付属演技研究所に入所し、研修生となられたのでした。

舞台「キティ颱風」で看板女優・杉村春子の娘役に抜擢

そんな岸田さんは、もともと、人見知りが激しく、当初は、

女優なんてとても

と、思われていたそうですが、

「文学座」付属演技研究所に入所して1年が経ち、卒業という時、「キティ颱風」という舞台のオーディションがあったそうで、

そのオーディションには、若い人が足りなかったことから、舞台美術志望の岸田さんも含め、研究生50人全員が受験したそうです。

すると、なんと、岸田さんは、「文学座」の看板女優・杉村春子さんの娘役に抜擢。

お父さんは、

お前は女優に向いていない、才能もない、そういう子がそんなところに入ってどんなにつらい目を見るか分からない、ほかのみんなにも迷惑をかけるに違いない。

と、猛反対されたそうですが、

岸田さんは、これまで一度も賞をもらったことがないばかりか、ほめられたこともなかったことから、50人の中から娘役に選ばれたことが嬉しくてたまらず、

絶対、やりたい

女優になるつもりはない、一度だけでいいから出させてほしい

と、懇願したそうで、

演出家の長岡照子さんの説得もあり、お父さんは、「この1回だけ」という約束で、舞台に出演することを許してくれたのだそうです。

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初舞台で女優に目覚める

こうして、お父さんに舞台に立つことを許され、杉村春子さんの娘役を演じることになった岸田さんですが、

杉村さんはじめ、中村伸郎さん、宮口精二さん、芥川比呂志さんという、そうそうたる俳優たちとの稽古が、楽しくて楽しくて仕方なく、

芝居ってこんなに奥が深くて楽しいものなのか

と、演じることの楽しさに目覚めたそうで、

1950年、19歳の時、舞台「キティ颱風」で初舞台を踏むと、

そうそうたる出演者に囲まれて舞台を踏んだとき、「私でない、私が出てきた」んです。

と、この時、はっきりと、女優として生きていくことを決意されたのでした。

「岸田今日子の若い頃は砂の女で実力派女優の地位を確立!」に続く

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