歌舞伎に対する強い思いから、戦火が激しくなった後も疎開を拒み、東京に残って歌舞伎に邁進した、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さんですが、さすがに12歳の少年にとって、空襲の恐怖はとてつもないものだったようです。

「萬屋錦之介は幼少期から進んで歌舞伎に邁進していた!」からの続き

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空襲の恐怖に耐える日々

1945年1月27日の「B29」による空襲により、世田谷への引っ越しを余儀なくされた萬屋さん一家でしたが、空襲は2月以降も連日のように東京で続いたそうで、

萬屋さんは、空襲が怖くてたまらず、サイレンが鳴ると、すぐに逃げ支度をされたそうですが、お父さんには、空襲警報が鳴ったら、必ず祖父母の位牌を持って避難するように言いつけられたそうです。

それは、ご先祖様に萬屋さんを守ってもらおうという、お父さんの気持ちだったのですが、萬屋さんはというと、そんなお父さんの気持ちを知ってか知らずか、ただただ、防空壕にもぐり、ブルブルと震えるばかりだったそうです。

東京大空襲

そして、1945年3月1日、空襲によって、「明治座」「浅草国際劇場」が焼け落ちると、さらに、3月10日午前零時直後には、約300機もの「B29」が東京の下町に爆撃を開始し(東京大空襲)、

空襲は、3月10日の未明まで続くと、一晩で東京の約3分の1が焼き払われて10万人が犠牲となり、100万人が負傷するという、かつてない最悪の空襲となったそうで、

(米軍は、風の強い日を見計らい、木造家屋が密集する一帯に焼夷弾を投下し、民家を焼き尽くそうとしたのでした)

萬屋さんは、この夜の様子を、

東京都の下町一帯を火焔につつんで大空襲が夜の空を真紅の色に染めました。私たちはふるえる足をふみしめて世田谷から夜の更けるのを忘れてじっとみつめておりますと、あの火の海も次には私たちの上にくるかと思うと何を考えるのもいやになるような息苦しさでした。

と、自伝「ただひとすじに」に綴っておられます。

ちなみに、お母さんは、この大空襲のことをラジオで知り、すぐに汽車に飛び乗って、何時間もかけて世田谷の家にやってきたそうで、家族の無事を知ると、力が抜けて畳の上にへたり込んだそうです。

そして、その日は、久しぶりに再会したお母さんを囲んで、遮蔽幕(しゃへいまく)と暗い電燈の下でささやかな宴を開いたそうで、萬屋さん、お父さん、お兄さんたちは、最後になるかもしれないこの団らんに、努めて明るく振る舞われたのだそうです。

東京大空襲で家が全焼するも家族は全員無事

その後、さらに、米軍による東京への空襲は、4月13日、4月15日と続き、4月26日の朝には、萬屋さんたちが住む世田谷の家に電話がかかってきて、三河台にあった家が全焼したと知らされたそうで、

萬屋さんは、お父さん、お兄さんたちとともに焼け跡に向かうと、そこは一面焼け野原で、まだ煙がくすぶり、焼けただれた黒い塊が転がっており、家は跡形もなく焼け落ちていたそうで、萬屋さんたちは、ただただ、呆然として焼け跡を眺めるばかりだったそうです。

すると、向こうの方に、(再び、家族の安否を確かめるため、疎開先の新潟から駆けつけた)お母さんの姿が見えたそうで、あまりにも突然だったため、驚きつつも、みんなでお母さんに駆け寄ると、

お母さんは涙を浮かべながら(それは家を失った悲しみの涙ではなく、家族に会えた嬉しさの涙)、

東京中の家が焼けたんだから、うちが焼けても当然よ。かえって心配がなくなっていいじゃない。

と、気丈に萬屋さんたちを励ましてくれたのだそうです。

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新橋演舞場と歌舞伎座が全焼し落胆

ところで、日本はこの頃、本土決戦体制の準備を進めていたのですが、米軍との兵力の差は歴然としており、日本軍の敗戦が色濃くなる中、1945年3月には、米軍は硫黄島の戦いを終え、4月には、沖縄本土に上陸。

アメリカ大統領は、ルーズベルトが急逝するも、トルーマンに代わると、日本に無条件降伏を求めるべく、米軍の攻撃はさらに激しさを増し、

5月24日未明から26日にかけ、490機もの「B29」が東京上空に現れると、今度は山の手を中心に広範囲の空襲を行ったそうで、

この空襲で「新橋演舞場」「歌舞伎座」も焼け落ちたそうですが、「歌舞伎座」が焼け落ちたことは、歌舞伎界の人々にとって、自分の家が焼け落ちた時以上にショックが大きく、その深い悲嘆と喪失感は、言葉では言い表せないほどだったそうで、

萬屋さんは、廃墟と化した「歌舞伎座」を訪れると、暗い気持ちの中、激しい怒りを覚えるほか、日本の勝利を信じて疑わなかった確信は脆(もろ)くも崩れ去り、敗北感に打ちひしがれたのだそうです。

「萬屋錦之介と東千代之介は昔は教師と生徒の関係だった!」に続く

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