今回も、引き続き、竹中直人(たけなか なおと)さんのルーツについて。第一次世界大戦による戦争特需(大戦景気)でたちまち大成功を収めた、竹中さんの母方のおじいさんの長谷川正直さんですが、戦争が終わると、状況は一変したといいます。

「竹中直人の先祖(高祖父)は藩の召抱絵師!祖父は貿易商だった!」からの続き

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戦後恐慌で一変

生糸の輸出で財を成し、家族と共に裕福な暮らしを謳歌していた正直さんですが、第一次世界大戦が終わると、状況は一変。

戦争が終わり、ヨーロッパの生産力が急速に回復したことで、日本の輸出が不振となり、余剰生産物が大量に発生すると、株価が3分の1にまで大暴落したのです。(戦後恐慌)

そして、この株価暴落を受け、銀行取り付け騒ぎが続出するほか、企業の倒産が相次ぐと、この煽(あお)りを受け、正直さんも資金繰りが回らなくなったのです。

(※「銀行取り付け騒ぎ」とは、特定の金融機関や金融制度に対する信用不安などから、預金者が預金・貯金・掛け金等を取り戻そうとして(=取り付け)、急激に金融機関の店頭に殺到し、混乱をきたす現象のこと)

横浜で再起を図るも長男と次男が相次いで他界

それでも、正直さんは、当時、貿易額が全国最大の港だった横浜なら仕事があるかもしれないと、かすかな望みをかけて、一家で横浜に移ると、今度は浮き沈みの激しい貿易の仕事には手を出さず、外国船籍の入船に合わせて、港で日本の土産物を売る「艦船行商」を始めたそうで、

時々、行商の傍ら、船内の掃除などを行ない、日銭を稼いでいたそうですが・・・

そんな厳しい日々の中、追い打ちをかけるように、昭和4年(1929年)には、まだ2歳だった次男・正義さんが食中毒で急死、懸命に父親の仕事を手伝っていた長男・正敏さんも結核で急死(享年19歳)という不幸が続き、子供は、長女の静さんと次女の芳枝さん(竹中さんの母)だけとなってしまったのでした。


幼少期の芳枝さん(竹中さんの母)

(芳枝さん(竹中さんの母)は、関東大震災の時、おんぶして逃げてくれた優しいお兄さん(正敏さん)を兄弟の中で最も慕っていたそうで、その死に打ちひしがれたそうです)

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祖父・長谷川正直は「横浜港ドイツ軍艦爆発事故」に巻き込まれて死去

そして、それから13年後の昭和17年(1942年)には、芳枝さん(当時23歳)が、横浜のデパートの呉服売り場に勤め、家計を支えていたそうですが、

すでに60歳となっていた父・正直さん(竹中さんのおじいさん)も、まだ行商を続けていたそうで、同年、11月30日、正直さんは、いつものように、横浜新港ふ頭に行商に向かい、午後に向けて商品を並び替えていたそうですが・・・

ちょうどその時、突然、横浜港のドイツ軍艦が爆発。

(日本は、ドイツ、イタリアと「日独伊三国同盟」を結んでいたことから、給油や物資を運ぶため、ドイツの軍艦が停泊していたそうです)

この爆発で、周囲2キロに渡り、鉄やガラス片が飛び散ったそうですが、正直さんもこの事故に巻き込まれ、全身に大やけどを負ってしまったのでした。


横浜港爆発事故

そして、その夜、家族が、病院に駆けつけると、

(事故直後、正直さんは行方不明だったそうで、家族は、夜になって、正直さんが病院に運ばれていたことを知ったそうです)

正直さんは、

ズボンのポケットに財布が入っているよ

と、話したそうですが、これが最後の言葉となり、正直さんは帰らぬ人となったのだそうです。

(竹中さんのいとこ・柏木幸子さんによると、その時、正直さんは、爆風の影響でズボンを履いていなかったそうですが、最後まで、お金の心配をしていたのだそうです)


柏木幸子さん(竹中さんの従兄弟)と長谷川正直さん(竹中さんの祖父)。

「竹中直人の祖父が死去した「横浜港独軍艦爆発」の事故原因は隠蔽されていた!」に続く

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