新しくマネージャーになったエプスタインさんの売り込みが功を奏し、1962年6月6日、ついに、レコードデビューが決定した、「The Beatles」ですが、ドラムスのピート・ベストさんが、突然、解雇されてしまいます。

「ビートルズのスチュアート脱退はポールのイジメが原因?」からの続き

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ピート・ベストを追放

レコードデビューを目前にした8月16日、突然、ドラムスのピート・ベストさんが解雇されてしまいます。

この時、「The Beatles」は、デビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングまでこぎつけていたのですが、

ピートさんは、度々、ライブを休むようになっていたことほか、プロデューサーから、レコーディングをするだけの技量が伴っていないと、ドラマーの交代を提案されていたそうで、ポール・マッカートニーさん、ジョン・レノンさん、ジョージ・ハリスンさんもこの考えに同意。

また、メンバー全員が「ビートルズカット(マッシュルームカット)」にしていたにもかかわらず、ピートさん一人だけ、最後までリーゼントを貫くなど、協調性に欠け、ほかの3人と溶け込んでいなかったことが、解雇の原因だと言われています。

ただ、いまだに不明な点が多く、真相は分かっていません。


(左から)ポールさん、ピートさん、ジョージさん、ジョンさん。(ピートさんだけがリーゼント)

ポールもジョンもピート・ベストの脱退に賛成

ちなみに、ピートさんの解雇に対し、

ポール・マッカートニーさんは、

性格の問題だった。プレイヤーとしてもあまり良くなかったし、僕と違ってピートはまともな奴だったからね。

ジョン・レノンさんは、

全く罪のない奴だったけれど鋭さがなかった。他のみんなは頭の回転が早かったけれどピートは俺たちにどうしてもついてこられなかった。

そもそもハンブルクへ行く時にドラマーがいなくて、とりあえず入れただけだ。ルックスが良くて女の子にもてたから、まともにドラムが出来なくても構わなかった、

ちゃんとしたドラマーが見つかったら降りてもらうつもりだったのさ。

と、2人とも、冷たいコメントを残されているのですが、そのようになったのは、ジョージ・ハリスンさんの影響が大きかったようです。

ジョージ・ハリスンがピート・ベストの脱退を推進?

というのも、ジョージさんは、

ピートはギグが終わると、一人で出かけて僕らとつるもうとしなかった。ギグもよく休むし、そんな時リンゴに代役を頼んでた。

リンゴがドラムを叩くたびに、「これだ!」と思ってたから、僕が「リンゴを正式なメンバーにしよう」とジョンとポールに働きかけた。

と、ピートさんがまだ「The Beatles」在籍中に、リンゴ・スターさんの家を訪ね、バンドに入ってほしいと打診していたそうで(ただ、この時はリンゴさんは留守)、

ピートを辞めさせたのは僕にかなりの責任がある。リンゴを正式なメンバーに入れようとジョンとポールに働きかけたから、2人もそういう考えに傾いていったんだ。

と、言われていたことから、

ジョージさんが一番、ピートさんの脱退を望んでいたと考えられているのですが、

その一方で、晩年には(ジョージさんは2002年にガンで他界)、

ピートには本当に気の毒な事をしてしまった。彼ももっと上達するかもしれなかった。だけど、リンゴがビートルズのメンバーになるのは最初から決まっていたようなものなんだ。

僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめて、再び彼と会ってピートに当時のことを謝りたかったんだ。

と、ピートさんを解雇に追い込んだことを最も後悔し、その後のピートさんを心配していたのも、ジョージさんだったといわれています。

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ピート・ベストは「The Beatles」追放後は職業紹介所の事務?

ちなみに、その後、「The Beatles」は、ピートさん追放の首謀者だったジョージさんがファンに頭突きを食らわされて、目にクマをつくり、

何週間もの間、

リンゴ Never! ピート Forever!

とブーイングされているのですが、

当のピートさんはというと、地元ミュージシャンが、

僕が次にピートを見た時、彼はグリーン通り (Green Lane) の職業紹介所で事務をやっていた。

僕は記名して失業手当カードを彼に渡すと、彼は言った「名前と住所に間違いはありませんか?」僕が「はい」と言うと、彼は「ここにサインをお願いします。」と言った。わざとよそよそしくしていたんだと思う。

と話しており、職業紹介所の事務に就職されていたとのことでした。

「ビートルズのデビューシングルは?アメリカでは苦労していた?」に続く

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