1957年には、「榎本健一映画演劇研究所」に入所し、2年間、演劇を勉強したという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、ほとんどの研究生が、卒業後は京都の撮影所に行って映画の仕事をもらっている中、さらに東京で修業を積む決意をしたそうですが、なかなか仕事がなく、職業安定所に通う日々が続いたといいます。

「財津一郎はエノケン(榎本健一)の最後の弟子だった!」からの続き

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「榎本健一映画演劇研究所」卒業後さらに修行を積もうとするも・・・

1957年から2年間、「榎本健一映画演劇研究所」で演劇の基礎を勉強した財津さんですが、このままで終わってしまっていいのかという思いが消えなかったそうで、苦労してでも、もっと東京で修業を積もうと決めたそうです。

(卒業したほとんどの研究生は、京都の撮影所に行き、映画の仕事をもらっていたそうで、撮影所での仕事は、主にチャンバラの切られ役などが多かったそうですが、収入は安定していたそうです)

職業安定所に通う日々だった

とはいえ、なかなか仕事はなかったそうで、財津さんは、飯田橋にある職業安定所に毎日通いつつ、皿洗いなどの日雇いのバイトで何とか食いつないでいたそうですが、

そんなある日のこと、いつものように職安へ行くと、職安は求職者であふれかえり、「仕事はない」と言われたそうで、今日の晩御飯はあきらめようと、お腹をすかせながら新宿御苑で時間をつぶすことにしたそうです。

野球場から飛んできたボールを追いかけて来たのは仲代達矢だった

すると、財津さんの方に、野球場から軟式ボールが飛んできたそうで、ボールを拾い、なんとなくそのボールを眺めていると、ユニフォームを着た男性がボールを取りにやって来たそうで、

財津さんが、

しょうがねぇな。はい、どうぞ

と、言ってボールを手渡すと、

その男性は、

あ、どうもすみません

と、申し訳なさそうにボールを受け取ったそうですが・・・

財津さんは、その男性の醸し出すオーラと、彫りの深い顔立ちから、俳優の仲代達矢さんであることに気がついたのだそうです。

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仲代達矢を前に情けなさがこみ上げてきた

仲代さんといえば、当時、映画「人間の條件」(1959~1961)などに主演し、その演技が高く評価されていたのですが、

実は、財津さんは、そんな仲代さんのことを、

日本にも世界に通用する役者さんがいる

と、憧れていたそうで、

舞台の仲間たちと野球をする仲代さんを、現実とは信じられないような気持ちで、ただただ、呆然と眺めていたそうです。

また、同時に、憧れの俳優を前に、なんとも言えない情けなさもこみ上げてきたのだそうです。

「財津一郎は昔「石井均一座」や「劇団ムーラン」を転々としていた!」に続く

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