大学在学中にプロレタリア演劇を見て感激し、演劇の世界に入られた、宇野重吉(うの じゅうきち)さん。戦前は左翼運動にも没頭されていました。

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年齢は?誕生日は?出身は?本名は?

宇野さんは、1914年9月27日生まれ、
福井県足羽郡下文殊村(現・福井市太田町)のご出身、

学歴は、
⇒旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)中退
⇒早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)卒業
⇒日本大学芸術科中退

ちなみに、本名は、
寺尾信夫(てらお のぶお)で、

芸名は、プロレタリア作家の「中野重治」さんと、
児童文学者の「鈴木三重吉」さんに由来しているそうです。

プロレタリア演劇に感激

宇野さんは、裕福な農家の家庭に生まれたのですが、
4歳の時にお父さんが亡くなり、家運が傾くと、
お母さんに連れられて福井市に移られます。

そして、その後、成長し、高校に進学されるのですが、
学資が続かず、高校3年生の一学期で中退されると、
横浜で巡査をしていた2番目のお兄さんを頼って横浜に。

しかし、大不況のため仕事がなく、一旦、福井に戻り、
しばらく、お姉さんの嫁ぎ先の機屋(はたや)で働かれると、

そのうち、手に職をつけようとしたのか、上京。
早稲田工手学校(当時工業高校)に入学されます。

ただ、早稲田工手学校在学中には、マルクス主義の影響を受け、
卒業後は、日本大学芸術科に進学。

その後、「築地小劇場」でプロレタリア演劇を見て感激されると、
「築地小劇場」に通うようになり、
芝居の世界に入ろうと考えるようになったのだそうです。

(築地小劇場ではプロレタリア劇団による演劇が中心に上演されていました)

共産党員として活動

そして、1932年には、
「プロレタリア演劇研究所」に入所されるのですが、

翌年の1933年5月には、
滝沢修さん、久保栄さんらの「東京左翼劇場」に加わり、
演劇活動と並行して、左翼運動(共産主義)にも参加されると、

1934年には「新協劇団」の結成にも加わり、
舞台「どん底」(1936)のペペル役、「火山灰地」(1938)の泉治郎役で、
評判となるも、その後は舞台には出演されず、共産党員として政治的な活動に専念。

ただ、1940年には、「新協劇団」が強制的に解散させられ
同年8月19日、宇野さんは「治安維持法違反」で投獄されてしまいます。

(当時、共産党は、天皇制廃止、侵略戦争反対を掲げる運動をしていたため、
1925年に革命的労働・農民運動を弾圧する目的で制定された治安維持法が発動)

そして、その後、いつ頃かは不明ですが、宇野さんは出所し、
1942年には、日本移動演劇連盟加盟の「瑞穂劇団」を組織すると、

全国の農村漁村を巡業されていたのですが、翌年の1943年に応召し、
演劇活動は中断を余儀なくされてしまったのでした。

(※応召とは、在郷軍人が召集に応じて軍隊に入ること)

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演劇界で活躍

その後、宇野さんは、終戦をボルネオで迎え、
復員後の1947年7月28日、滝沢さん、清水将夫らと、
「第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)」を創設されると、

1949年には、劇団内の対立で解散するも、
1950年12月22日には、「劇団民藝(第二次民藝)」を設立。

宇野さんは、その中心的指導者となられると、
「俳優座」「文学座」と並ぶ、代表的な新劇団に育て上げ、
(モットーは「芝居でメシの食える劇団」だったそうです)

1950年「かもめ」
1951年「炎の人」
1952年「冒した者」
1953年「民衆の敵」
1954年「セールスマンの死」
1955年「ヴィルヘルム・テル」
1957年「楡の木蔭の欲望」
1959年「ガラスの中の動物園」


「かもめ」より。


「セールスマンの死」より。

1960年「どん底」
1961年「火山灰地」
1962年「オットーと呼ばれる日本人」
1965年「ゴドーを待ちながら」
1967年「瀬戸内海の子供ら」
1968年「夕鶴」
1969年「炎の人」


「火山灰地」より。

1970年「もう一人のヒト」
1971年「星の牧場」
1972年「三人姉妹」
1973年「円空遁走曲」
1974年「赤ひげ」
1975年「聖火 母の総て」
1976年「リリオム」

1977年「わが家は楽園」
1980年「わが魂は輝く水なり」
1982年「タナトロジー」
1983年「エレジー 父の夢は舞う」
1985年「こんな筈では」
1986年「おんにょろ盛衰紀」
1987年「馬鹿一の夢」


「三年寝太郎」より。

などの舞台に出演し、
飄々とした風貌と、軽妙な味の演技で知られるように。

また、1959年「運命」からは、

1960年,1968年「イルクーツク物語」
1962年,1966年「オットーと呼ばれる日本人」
1963年「斬られの仙太」
1964年「あゝ野麦峠」
1965年「七月六日」
1966年「報いられたもの」

1967年「白い夜の宴」
1968年「斬られの仙太」
1969年「あゝ野麦峠」
1970年「七月六日」
1971年「銀河鉄道の恋人たち」
1972年「三人姉妹」

1973年「影」
1974年「赤ひげ」
1975年「聖火 母の総て」
1976年「リリオム」
1978年「山脈」
1979年「子午線の祀り」

1980年「嬰児殺し」
1982年「タナトロジー」
1983年「エレジー 父の夢は舞う」
1985年「こんな筈では」
1986年「三年寝太郎」
1987年「夏・南方のロマンス」

ほか数多くの作品を演出され、1971年には、

劇団は創立者だけの物である

という、「劇団一代論」を発表し、演劇界に衝撃を与えたのでした。

「宇野重吉の死因は?妻は?息子は寺尾聰!出演ドラマ映画は?」に続く

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