1964年、日本で「東京オリンピック」が開催されるにあたり、記録映画の制作を依頼されると、一流の選手たちの躍動する肢体美を追求し、さらに選手の内面にまで迫った、芸術性の高い作品を完成させた、市川崑(いちかわ こん)さんですが、これが思わぬ騒動に発展します。

「市川崑は黒澤明らの代役で映画東京オリンピックの監督を引き受けていた!」からの続き

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オリンピック担当相から痛烈なクレームを受けていた

限られた時間の中、3億円以上をつぎ込み、こだわり抜いて、芸術性の高い映画を制作された市川さんでしたが、

1965年3月8日、完成披露試写会の2日前に行われた関係者のみの試写会でこの作品を観たオリンピック担当大臣の河野一郎氏は、

俺にはちっともわからん

記録性をまったく無視したひどい映画

などとこき下ろすと、

記録性を重視した映画をもう一本作る

とまで、言い放ち、

文部大臣の愛知揆一氏も、

文部省として、この映画を記録映画としては推薦できない

という声明を出したことから、「記録か芸術か」の大論争に発展。

そして、最終的には、配給元の「東宝」から映画の修正を求められ、試写版に日本人金メダリストやオリンピック建造物の映像を追加した、公開版の制作を余儀なくされたのでした。

映画「東京オリンピック」が大ヒット

こうして、紆余曲折あった映画「東京オリンピック」ですが・・・

いざ公開されると、配給収入12億2321万円となる大ヒット。

また、映画館のほかにも日本各地の学校や公民館で上映会が開かれたことから、その観客動員数は、一般観客750万人、学校関係者1600万人の合計2350万人にのぼり(日本映画史上最多)、

さらには、この年の「カンヌ国際映画祭」「国際批評家賞」「英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞」を受賞するなど、高い評価を受けたのでした。

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もうやりたいとは思わない

ちなみに、市川さんは、

映画に変わりはないんですが、やはりテーマの把握とか、表現方法なども違うと思います。「民族の祭典」を参考にさせてもらって、全然違ったオリンピック映画を創作しようと思いました。

と、自分の考えやイメージで自由に作れる劇場映画とは違い、目の前の現象を忠実に捉えなければならない記録映画ならではの難しさを実感されたほか、

偶然のピンチヒッターでやったわけですが、世の中、偶然の連鎖ということもありますし、それで勉強をさせてもらいました。

オリンピックが何であるかもそうですし、それに対するものの考え方、そういう意味もあってスポーツに教えられましたからね。

と、この映画の制作で、映画作家としての以後の人生に大きな影響を受けたことを明かされているのですが、

いや、もうやりたいとは思いませんね。今やったらもっとうまいとは思いますけどね(笑)。時代のすう勢でオリンピックも変わってきましたしね。然し、オリンピックの理念の世界の平和と友情は、変わらないでほしい。

と、明かされており、やはり、大変なご苦労があったことが分かります。

また、息子の市川建美さんも、

あのときはつらそうでした。開幕5カ月前にめぐりめぐって引き受けたのに、後から妙な議論が始まり…。父は、作りたい映画を精いっぱい作る人でしたから。

と、家族ならではの、知られざるお父さんの苦悩の姿を明かされています。

「市川崑の死因はタバコ1日100本のヘビースモーカーではなかった!」に続く

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