「日活」から「大映」に移籍すると、「日本橋」「炎上」「鍵」「野火」「弟」など、文芸作品を中心に数々の名作を世に送り出し、映画界の斜陽化に伴いテレビ業界に進出しても、「木枯し紋次郎」シリーズ、「金田一耕助」シリーズで成功を収められた、市川崑(いちかわ こん)さん。実は、1964年には、記録映画「東京オリンピック」の総監督を務められています。今回は、市川さんが総監督を務めることになった経緯ほか、この映画に持っていたこだわりについてご紹介します。

「市川崑監督は犬神家の一族(金田一耕助)大ヒット時60歳を回っていた!」からの続き

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黒澤明監督らの代役として記録映画「東京オリンピック」総監督のオファー

市川さんは、1965年、記録映画「東京オリンピック」の総監督を務められています。

実は、もともと、黒澤明監督にオファーがあり、ローマオリンピックも見に行かれたようですが、予算の関係から断られたようで、その後、今井正監督、今村昌平監督、渋谷実監督、新藤兼人監督ほか複数の監督にオファーが流れ、最終的に、1964年1月、市川さんが引き受けられたそうです。

ただ、市川さんは、

記者発表の時もそういう質問が出ましたが、「昔からジャイアンツのファンだけども、あとはよくわからない」と答えて、大笑いになったくらいで(笑)、オリンピックのことはよく知りませんでした。

と、それまで、オリンピックへの感心は全くなかったとのことでした。

オリンピックの理念から調べていた

さておき、オファーを引き受けた市川さんは、1964年4月、制作を担当していた「東京オリンピック映画協会」を訪ねたそうですが、そこに在籍していたのは、会長の田口助太郎さんと事務員が2人だけだったそうで、10月から始まる大会に間に合うのかと唖然としたそうです。

また、映画を作るにあたり、シナリオが必要ということで、奥さんで脚本家の和田夏十さん、谷川俊太郎さん、白坂依志夫さんに協力を要請し、4人で打ち合わせを始めたそうですが、どんなシナリオを書いていいか分からず、困り果ててしまったそうです。

そのため、市川さんは、「そもそも、オリンピックとは何か?」を百科事典で調べるところからスタートしたそうで、

それでわかったのは、第一次世界大戦で中止、第二次世界大戦で中止。つまり4年に一度、人類が集まって平和という夢を見ようじゃないか。それがオリンピックの理念だとわかりました。

これをテーマにシナリオを書いたのです。それを全スタッフに渡しました。おかげでスタッフに制作意図がよくわかってもらえたと思います。スタッフにぼくの意図がどう浸透するか、これがいちばん重要なことなのです。特に記録映画は初めてでしたからね。

と、語っておられました。

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芸術性の高い作品が完成

そして、オリンピック実施競技の各種目の撮影計画を練ると、スポーツの撮影に慣れることを目的に、各競技大会を見学するほか、テスト撮影を行われたそうで、

引き受けた限りはなんとか頑張ろうと思って。とにかく、単なる記録映画にはしたくなかったですね。自分の意思とかイメージというものを重く見て、つまり創造力を発揮して、真実なるものを捉えたい、と。

と、躍動美を追求するため、超望遠レンズをはじめとする複数のカメラを使った多角的な描写などを駆使するほか、選手の内面にまで迫る演出など、随所にこだわりを見せ、従来の記録映画とは異なる極めて芸術性の高い作品を作られたのでした。

(ちなみに、望遠マイクに1700万円、競技場の臨場感を再現するステレオ録音のために680万円、夜間撮影のための超望遠レンズに780万円ほか、次々と経費がかさみ、最終的な制作費は3億5360万円まで膨れ上がったそうです。)

「市川崑の映画東京五輪オリンピックは担当相のクレームで修正させられていた!」に続く

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