映画「ビルマの竪琴」で数々の映画賞を受賞し、名監督の仲間入りを果たすも、上映を巡るトラブルから「日活」を退社された、市川崑(いちかわ こん)さん。しかし、その後、テレビ業界に進出すると、市川さんの快進撃が始まります。

「市川崑監督はビルマの竪琴で名監督の仲間入りをしていた!」からの続き

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文芸作品を中心とした作品を発表

「ビルマの竪琴」の封切りを巡るトラブルにより、今度は、「日活」から「大映」に移籍された市川さんですが、

以降、

1956年「日本橋」
1958年「炎上」
1959年「鍵」
     「野火」
1960年「弟」
     「ぼんち」


「野火」より。ミッキーカーチスさんと船越英二さん。

1961年「黒い十人の女」
1962年「破戒」
     「私は二歳」
     「太平洋ひとりぼっち」
1963年「雪之丞変化」


「雪之丞変化」より。若尾文子さんと二代目中村鴈治郎さん

など、文芸作品を中心に発表し、着実に映画監督としての地位を確立されています。

テレビ業界に進出

また、1950年代後半になると、テレビ放送の開始により、映画界に陰りが見え始めるのですが、市川さんは、テレビに新しい可能性を見出し、1959年には、いち早くテレビ業界に進出。

通常であれば、映画監督がテレビ業界に進出すると、フィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムに留まることが多かったのですが、

市川さんは、生放送ドラマ、ビデオ撮りドラマほか、当時はまだ実験的だったハイビジョンを使ったカメラでドラマ制作を手がけるなど、テレビ業界においても先駆的な役割を果たされたのでした。

テレビ時代劇「木枯し紋次郎シリーズ」が大ヒット

そして、1972年、市川さんが監督・監修を手がけたテレビドラマ「木枯し紋次郎シリーズ」では、当初、原作者の笹沢左保さんは、主人公・紋次郎役に、田宮二郎さんをイメージしていたそうですが、

「主役は新人で」という市川さんの意向により、元・俳優座の若手実力派俳優でありながら、いまいちパッとしなかった中村敦夫さんを抜擢されると、

これまで、股旅物時代劇ではお馴染みだった、

義理人情に厚く腕に覚えのある旅の博徒(無宿人)が、旅先の街を牛耳る地回りや役人らを次々に倒し、善良な市井の人々を救い、立ち去っていく

という定番のスタイルを排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生きようとする紋次郎のニヒルなスタイルと中村さんのクールなたたずまいが見事にマッチ。

放送時間が、夜10時30分開始というゴールデンタイムからはずれた時間帯だったにもかかわらず、第1シーズンでは、視聴率は毎週30%(最高視聴率は38%)という大ヒットを記録したのでした。


「木枯し紋次郎」より。紋次郎に扮する中村敦夫さん

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映画「犬神家の一族(金田一耕助シリーズ)」が大ヒット

このヒットで、斬新な演出と迫真性の高い映像が高く評価された市川さんは、「崑プロダクション」を設立されると、

なかなか、ヒットを出すことができずにいた映画でも、横溝正史の長編推理小説「金田一耕助」を原作とする「犬神家の一族」(1976年)が、約350万人を動員し、配給収入17億5000万円のメガヒットを記録。


「犬神家の一族」より。(左から)川口恒さん、石坂浩二さん、加藤武さん。

そして、続くシリーズ第2作目「悪魔の手毬唄」(1977年)も、配給収入7億5500万円を記録する大ヒットとなると、その後も、

「獄門島」(1977年)
「女王蜂」(1978年)
「病院坂の首縊りの家」(1979年)

と、シリーズ化され、原作者・横溝正史ブームを巻き起こし、「日本映画の金字塔」と称されたのでした。

ちなみに、30年後の2006年には、市川さん自ら、「犬神家の一族」のリメイク作を発表されています。

「市川崑は黒澤明らの代役で映画東京オリンピックの監督を引き受けていた!」に続く

2006年版の「犬神家の一族」の会見より。(左から)深田恭子さん、石坂浩二さん、三谷幸喜さん、市川崑監督。

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