映画スター・長谷川一夫さんのコネで、「新東宝」から女優デビューされた、石井ふく子(いしい ふくこ)さんですが、女優業は長くは続きませんでした。今回は、石井さんが女優を辞めた理由や、現在のプロデューサー業をされるに至ったいきさつなどをご紹介します。

「石井ふく子が若い頃は新東宝から女優デビューしていた!」からの続き

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「女医の診察室」で原節子と共演

1947年、映画「大江戸の鬼」で女優デビューした石井さんは、その後も、

「三百六十五夜 東京篇・大阪篇」(1948年)
「人間模様」(1949年)

と、端役で映画に出演すると、1950年には、「女医の診察室」で、原節子さん演じる婦人科医の助手(看護師)役を演じられているのですが、

実は、石井さんは、原節子さんの大ファンだったそうで、撮影期間中は、自身の出番がなくとも、毎日、撮影所に通われたそうです。

すると、そんなある日のこと、風邪で具合が悪くなり、ふと気がつくと、医務室で寝ていたそうですが、なんと、ベッドの脇には原さんがいたそうで、

原さんは、

これを食べるといいわ

と、石井さんの口にチョコレートを入れてくれたのだそうです。

石井さんは、そのことが、嬉しくて仕方なかったそうで、

さっぱりした気性の方で無駄な口はきかなかったけれど、後輩たちにとても優しかった。余分なお芝居はせず、気持ちが前面に出ていたところも大好きでした。爽やかで清潔感のある稀有(けう)な存在の女優さんでした。

と、語っておられました。


当時の石井さん(左から2番目)と原節子さん(中央)

「新東宝」を退職

さて、こうして、端役ながら、「新東宝」で女優として活動されていた石井さんですが、ニューフェイスということで、会社の催しがある度に駆り出され、社交的な場で陽気に振る舞うことを求められたそうで、

幼い頃から一人でいることに慣れていた石井さんは、このような華やかな映画の世界に馴染めず、次第に疲労感が溜まっていったそうです。

また、組合の委員を一生懸命やり過ぎ、体を壊してしまったこともあり、結局、たった2年で「新東宝」を退職されたのでした。

「日本電建」に入社

その後、石井さん一家は、徐々に経済的に安定してきたことから、お世話になっていた長谷川さんの家を出て、渋谷に家を借りて移り住むと、

石井さんも体調が回復したため、再び、職を探し始め、1950年には、新聞広告を見て応募した、「日本電建」という会社に入社。

(「日本電建」は、当時、建売住宅販売で業績をぐんぐん伸ばしていたそうです)

最初は、営業所勤務だったそうですが、後に、その異色の経歴や家族構成が社長の目に留まり、宣伝部に配属されたそうです。

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宣伝マンながら制作にもかかわるようになっていた

そんな石井さんは、「日本電建」「TBS」のスポンサーだったことから、「ラジオ東京」(「TBS」の前身)で「日本電建」提供のラジオドラマ「人情夜話」(月~金曜、夜15分間放送)を制作することになった際(この当時はテレビはなく、ラジオしかありませんでした)、スポンサー側の人間としてスタジオ収録に立ち会うのですが、

回を重ねるごとに局のスタッフと親しくなると、プロデューサーと企画についても話し合うまでになり、さらには、お父さんの伊志井寛さんを通して劇団「新派」の俳優たちとも交流があったことから、キャスティングにも関わるようになり、「新派」の俳優たちを起用されると、

(「変わった宣伝マンがいる」と話題になったそうです)

次第にドラマ作りのおもしろさに目覚めたそうで、スポンサー側の人間であるにもかかわらず、原作選び、脚本作り、キャスティングと、いつのまにか、制作スタッフと同じような仕事をするようになり、

いつしか、

次は何をやりましょうか

と、アイディアを求められるようになったのでした。

「石井ふく子の若い頃のTBSと日本電建の掛け持ち勤務が凄すぎる!」に続く

「日本電建」時代の石井さん。

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