1950年、「TBS」のスポンサーだった「日本電建」に就職すると、スポンサーとして「TBS」のラジオドラマ収録現場に立つうちに、制作のアイディアを次々と出すなど、プロデューサーとしての仕事もするようになった、石井ふく子(いしい ふくこ)さんですが、やがて、「TBS」にその腕を認められ、プロデューサーにスカウトされます。
TBSからプロデューサーとしてスカウトされる
やがて、「ラジオ東京」は「東京放送」(後の「TBS」)と社名を変え、テレビが開局するのですが、
1957年の夏のある日のこと、石井さんが、いつものようにラジオドラマの収録に立ち会っていると、「TBS」のテレビ演出部長・諏訪博さん(後の「TBS」社長)が近づいてきて、石井さんの隣に並び、
「東芝日曜劇場」の製作助手をやってみませんか
と、「東芝日曜劇場」のプロデューサーになるよう勧めてきたそうです。
ただ、石井さんは、この時、「日本電建」の社員で責任ある立場にあったことから、自身の一存で簡単に決められる話ではないと断ると、
今度は、「TBS」の編成局長・今道潤三さん(後の「TBS」社長)が、直接「日本電建」の社長・平尾善保さんに掛け合い、石井さんを譲ってほしいと頭を下げられたそうで、
このことを知った石井さんは驚いて、慌てて平尾社長のところに行くと、
平尾社長から、
今あなたに辞められては困る。だが、もしあなたに才能があるのなら、それをつぶすことになってしまう。やれるかやれないか、とにかくやってみなさい。
君の才能はテレビで伸びるかもしれない、会社とテレビの仕事、掛け持ちでやってみろ
と、言われたのだそうです。
ちなみに、昼間は「日本電建」の社員として、夕方5時以降は「TBS」でという、かなりハードな条件だったそうですが、石井さんは、迷うことになく、引き受けられたのでした。
「日本電建」と「TBS」の2足のわらじの激務
それからというもの、石井さんは、平日は、夕方5時まで銀座にある「日本電建」で働いた後、赤坂に移動して「TBS」で勤務し、
土曜日は、「日本電建」が半日出勤のため、午後から「TBS」で勤務し、日曜日は、終日「TBS」で過ごすという、休日返上で仕事を掛け持ちされたそうで、
当時のテレビドラマは生放送だったため、日曜9時から始まる「東芝日曜劇場」は、このタイムスケジュールで、なんとかやりくりできたのだそうです。
ちなみに、石井さんの手掛けた第1作目は、1958年、三島由紀夫さんの短編小説を原作とする、「東芝日曜劇場」の第93回「橋づくし」(9月7日放送)だったそうですが、
香川京子さん、山田五十鈴さん、渡辺美佐子さん、京塚昌子さんらそうそうたる女優陣が出演し、評判も上々だったとのことでした。
「橋づくし」の撮影現場より。
テレビの普及率が上がって仕事が激増
そんな石井さんの、「日本電建」と「TBS」の掛け持ち生活は3年ほど続いたそうですが、
当初、10%程度だったテレビの普及率が、1961年には60%を超えるまでになり、テレビに携わる人の数も仕事量も急速に増えたことから、石井さんの掛け持ちでの仕事は猛烈に忙しくなったそうで、
次第に「TBS」に滞在する時間が長くなり、「日本電建」の仕事にも支障をきたすようになっていったのでした。
「石井ふく子はTBSを一度辞めていた!その理由とは?」に続く