舞台「屋根の上のバイオリン弾き」での共演で知り合った小宮健吾さんと、1976年に結婚されるも、収入や俳優としての格差が原因で、4年後の1980年には離婚された、倍賞千恵子(ばいしょう ちえこ)さんですが、翌年の1981年には、高倉健さんとの熱愛が報道されます。今回は、この熱愛報道を取材した当時の芸能記者の話をもとにした、倍賞さんと高倉さんの関係と、現在のご主人についてご紹介します。
「倍賞千恵子の元夫は俳優の小宮健吾!離婚理由は格差婚?」からの続き
高倉健との交際が報道される
倍賞さんは、1981年、俳優・高倉健さんとの交際を週刊誌「週刊女性」(8月11日発売)で報じられています。
その、お二人の熱愛を報じたのが、当時、「週刊女性」の記者として現場で取材していた石川敏男氏なのですが、
石川氏によると、映画関係者から、高倉さんが翌日から撮影で北海道に発つから、必ずその前に倍賞さんの家に行くと教えてもらったそうで、倍賞さんのマンションをカメラマンと共に張り込んだそうです。
(石川氏は、倍賞さんの自宅で高倉さんの姿を見たという目撃談があり、取材を進めるうち、お二人が共演した映画「駅 STATION」(1981)を撮影している時、高倉さんは毎回ロケには倍賞さんと一緒に来るとスタッフから聞いたとも語っています)
そして、向かいのビルから倍賞さんの部屋をのぞくと、楽しそうに料理をしている倍賞さんの姿が見え、しかも、壁には、高倉さんがCM出演していた三菱自動車の大きなポスターが貼ってあったそうで、
二人が交際していることを確信した石川氏は、
これは(高倉さんが)来るな
と、思って待っていたそうです。
すると、それから数時間後の午後8時半頃、「駅 STATION」のワッペンを貼ったつば広帽をかぶった高倉さんが、三菱の車に乗ってマンションの駐車場に入って来たそうで、通い慣れているような感じで、迷わず駐車スペースに車を停車。
管理人も、高倉さんの車を見るや、さっと飛び出してマンションのエントランスを開け、エレベーターを1階に呼んで「開」ボタンをずっと押して、高倉さんが来たら、すぐに乗り込めるように待っていたそうで、
石川氏は、
これは話ができる
と、慌てて飛び出したそうですが・・・
タイミングが早すぎたようで、それに気付いた高倉さんは、車から降りることなく、狭い駐車場の中をUターンし、マンションから立ち去ってしまったそうで、
石川氏たちもしばらく車で追いかけるも、追いつけず、結局は、決定的なスクープ写真を撮ることができないまま、文章だけの報道となってしまったそうで、
石川氏は、
私の芸能記者生活の中でいちばんの大失敗。本当に悔しい思いをしたのを昨日のことのように思い出します
と、語っています。
「週刊女性」より。
高倉健は倍賞千恵子との交際を否定
この報道が出た翌週、高倉さんは、急遽、「駅 STATION」の撮影中、ロケ地だった北海道留萌で記者会見を開かれると、
自分が決意する前に、マスコミに先取りされてしまったことが心外なんです。今後は(ふたりの仲が)どういうふうに進んでいくのか、私にはまったくわかりません。ふたりは仲のよい友達なんです。
と、あくまで友人関係をアピール。
記者たちが質問しようとすると、関係者に急き立てられるように、会見場を後にされています。
真相は?
しかし、実際のところ、どうだったのでしょうか。
映画関係者によると、倍賞さんと高倉さんが、
1977年「幸福の黄色いハンカチ」
1980年「遙かなる山の呼び声」
1981年「駅 STATION」
「駅 STATION」より。高倉健さんと倍賞さん。
と、立て続けに共演したことで仲良くなって、交際に発展したことは、映画界では有名で、
結婚してくれたらいいな
という雰囲気があったのだそうです。
ただ、この報道が出た後、高倉さんは、倍賞さんのマンションに行くことができなくなってしまい、倍賞さんの所有する箱根の別荘で会ったりするほか、愛車の「三菱パジェロ」の窓にスモークを貼って、車内が見えないようにし、「デート車」として使うなど、工夫されていたようですが、結局、報道が出てから3年ほどで破局したと言われています。
(しかも、「駅 STATION」を最後に、お二人の共演もなくなっています)
倍賞千恵子が語った高倉健との思い出とは
ちなみに、2014年11月に高倉さんが他界し、翌年の2015年10月25日には、「第28回東京国際映画祭」で、「高倉健と生きた時代」と題して高倉さんの出演作品が上映され、高倉さんを偲ぶ追悼特集が開催されているのですが、
「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」「駅 STATION」の3作品で高倉さんと共演された倍賞さんは、登壇すると、
(「幸福の黄色いハンカチ」での)記者会見のときに共演のみなさんとお茶を飲みまして、そこで初めて健さんにお目にかかりました。
そのとき、武田鉄矢さんがいろいろ面白い話をしてくれて、みんなでゲラゲラ笑っているうちに緊張もほどけていったのですが、そんな中で健さんの第一印象はやはり「かっこいいなあ」でしたね。
ただ、現場ではやはり緊張しました。何せ私は目の小さいお兄ちゃん(渥美清)といつも仕事していましたから(笑)、対する健さんは「眼力のある方」というイメージでしたね。
また、私は夕張での回想シーンの出番がほとんどでしたが、最初にみんなで食事した後、お茶を飲みに行くことになりまして、ちょうど雨が降っていたのですが、
そのとき山田洋次監督が「倍賞君、健さんのところに行って兄弟何人いるのか聞いてきてごらんよ」とおっしゃるので、え?と思いながら健さんのところへ行きまして、そこでお話を伺っているうちに、いつのまにか相合い傘していました(笑)。緊張していましたので、結局ご兄弟は何人だったのか、いまだによくわかっていません(笑)。
夜、健さんが喧嘩するシーンを見学させていただいたときは、ドキッとするくらい怖かったですね。本当に近寄りがたい雰囲気で、ここで見ていてはいけないのではないかと思い、そっと帰ってしまいました
(「駅 STATION」は)既に五社協定はなくなっていましたが、このとき松竹から出演を反対されまして、直接お話しさせていただいて、ようやく出演できることになった作品でした。(「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」は松竹、「駅 STATION」は東宝だったそうです)
このときも健さん扮する主人公が私の情夫を射殺するシーンのとき、スタジオに入るなり張りつめた空気が流れていて、とても近寄りがたい雰囲気だったのを覚えています。一方で、やはり重要なシーンの際、暗がりの中で健さんがストレッチしている姿がとても印象的でした。
でも撮影が終わるとお茶目なところもいっぱいある方で、何かの打合せでお茶を飲んでいるとき、健さんが急に時計をぱっと外してコップの水の中に落としたんですよ。「何してるんですか」とびっくりして言ったら、「大丈夫、防水です」と(笑)
と、高倉さんとの思い出を語っておられます。
また、高倉さんが亡くなった時には、
動いている健さんの映像を見るのもつらかったですし、とても大事な方を失った想いです。渥美清さんもそうでしたけど、みなさん突然いらっしゃらなくなって
と、しばらくは、高倉さんの出演されている作品を見ることができなかったことを明かされるほか、
山田監督が「素晴らしい俳優は贅肉がない」とよくおっしゃるんですけど、それは肉体的に太っている痩せているではなく、自信がない人ほど芝居で小細工をする。
それが“贅肉”という表現になるのですが、その意味でもまったく贅肉のない芝居をされていたのが渥美さんであり、笠(智衆)さんであり、高倉健さんであったと思いますし、私自身そういう人間、そういう俳優でありたいと願っています
と、高倉さんが特別な存在だったことも明かされています。
作曲家・小六禮二郎と再婚
そんな倍賞さんも、1993年、52歳の時には、8歳年下の作曲家・小六禮二郎さんと再婚されています。
お二人の馴れ初めなど、詳しいことは分かりませんでしたが、1986年に交際をスタートすると(当時、小六さんには妻子がおり、不倫関係)その後、離婚が成立し、めでたく結婚となったようです。
結婚後は、北海道野付郡別海町に別荘を持ち、1年の半分近くをそこで過ごされているとのことで、仲良く暮らされているようです。
ちなみに、小六さんは、東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業後、作曲家、編曲家として活動し、映画「ゴジラ」、NHK大河ドラマ「功名が辻」「秀吉」、NHK連続テレビ小説「さくら」、NHKみんなのうた「いらっしゃい」、ゲームソフト「決戦」など、幅広く手がけられており、倍賞さんとともにコンサートも開催されています。
小六禮二郎さんと倍賞さん(「ちちぶ映画祭2016」より)。